「わたしはフットボールをサッカーではなく、フットボールと呼ぶ場所に生まれたかった。そこで育ちたかった」。  「フットボールをサッカーと呼ぶ人たちが住む国」に生まれ落ち、サッカーへの愛着を深め、今では“サッカー・ジャンキー”と自称するまでになった一人の男は、遠くヨーロッパで「フットボール」と出逢う。地域に根ざしたクラブチーム、魔法使いにも似た妙技を繰り出すフットボーラー、我を忘れて熱狂的な応援をするサポーター、酒と歌とゴールと勝利。彼の地では「それらすべてを引っくるめたものがフットボールと呼ばれるものだった」(注)。
 彼は三十歳を越えて初めて、ブーム=一過的な社会現象などではない、ひとつの文化として成立・定着している「フットボール」を体験したのだった。そして彼は思う。我が祖国・ニッポンにはこれがない・・・・・・と。
 近代スポーツの多くが欧米で(主に興行面で)発達したことを一因とする“スポーツ後進国・ニッポン”への悲嘆。しかし、これはサッカーに限った話ではない。野球でも競馬でも、またゴルフやテニスやF1でも、ため息混じりに口からこぼれる言葉は「本場[メジャー]は違う」。アスリートの技術レベルの高さだけでなく、文化としてスポーツが成立している社会への憧れは、同時に現在の日本社会への複雑な(多くはうつむきがちな)思いを同居させもする。本人はほとんど意識していないだろうに、国家の代表選手であるかのごとくナカタやノモを、タケやマルヤマを賞賛する一部のスポーツ・ジャーナリズムの言説は、この複雑な思いのきれいな写像であろう。
 知育・徳育と並ぶ“体育”として<スポーツ>を解釈・導入し、封建時代の多種多様な格闘術を「道」へと地均ししてきた明治以降の歴史をここで云々するつもりはない。生硬な国家・国民意識[ナショナリズム]でこの来歴をただ全面肯定しても、逆に発展史観に基づいた本場[メジャー]への憧れ(「いつかは、あの場所へ」)を募らせてみても、現在の日本社会におけるスポーツのあり方が一変することはなかろうから。しかも、“あるべき正しいスポーツの形”なるものなど、そもそも存在しないのだから。
 一人の日本人・馳星周が体験したスポーツとしての「フットボール」、それは「する」だけでも「見る」だけでもない、「感じる」べき何物か、だった。プロフェッショナル・アスリートの磨き抜かれた技術も、それに魅了される人々の特定の国家・地域への帰属意識も、さらにはスポンサーや経営者が見せる徹底した(決して綺麗事だけでは済まない)資本主義の論理も、すべてまるごと呑み込んでしまうような祝祭空間。それを“文化”と呼ぶかどうかは議論が分かれようが、ヨーロッパでは日常生活のひとつの契機として「フットボール」が存在する、ということだろう。
 では、振り返って日本では、果たしてそのようなものとしてスポーツが存在してきた/しているかどうか。別に「本場[メジャー]」と背比べをする必要はない。かといって、日本あるいはアジアにはそもそも欧米の文化が生育する土壌がないし、そんなものを育てる必要もない、などと「日本特殊論」に逃げてしまうのも議論の早上がりだろう。技術勝負だけがスポーツではないし、お祭り騒ぎのトランス状態をもたらすだけがスポーツの機能でもないのだから。
 少々語義矛盾をはらんではいるが、日本における「恒常的な社会現象」としてのスポーツのあり方を考えてみる、という方向があり得よう。例えば、大相撲。何度かのブーム=一過的な社会現象を経ながら、さらには近世/近代の分割線をも飛び越えて、寸鉄帯びずに登場する“チカラビト”たちは独特の空間を編み上げてきたのではなかったか。あるいは、プロレス。街頭テレビの中で空手チョップを連発する力道山に向けられた人々の熱気と情熱は、その内実こそ変容すれど、今なお連綿と続いているのではなかろうか(グレイシー柔術やK-1グランプリへの注目を想起してみればいい)。競技者、ファン、興業、コトバ。様々なモノ−コト(物事)が入り組んで現在のスポーツは成立しているのであり、だからこそ馳のように、「文化」としてそれを勝ち得ることへの憧憬も生まれもするのだ。
 スポーツに対する人々の感情とは、同時に社会に住まう人々の日常感覚でもある。ブームか文化か、といった単純な二項対立図式ではなく、様々な形でスポーツは社会に存在しうる、という前提に立ったとき、初めて「スポーツという社会現象」はプリズムを通った光のごとく、幾色もの姿をもって現れてくるだろう。もちろん、その光を発するのは、その社会に住まう人々、である。

(注)馳星周「サッカー・ジャンキー」『Sports Graphic Number Plus 20世紀スポーツ最強伝説2 サッカー 百年の記憶』1999年、文藝春秋。