「あしたの新聞」をご存じだろうか?毎週末、何十万という人が買っていく。「結果」は書かれていない。代わりに書かれているのは、「これから起こりうること」の断片的な情報。読者は自らの想像力を駆使して未来を推理する・・・。競馬は、そんな新聞の存在を可能にする<スポーツ>である。
 「競馬ファンは馬券を買わない。/財布の底をはたいて『自分』を買っているのである。」(寺山修司「加賀武見論」)  毎年、日本ダービーの行われる日には十万以上の観衆が東京競馬場に集まり、テレビやラジオを通じてならば百万単位の人々がサラブレッドの競走に注目する。二分半にも満たない、ただ人間が馬に乗ってコースをぐるっとまわってくるだけのことに何百億というお金が投じられ、「『自分』を買っている」観衆は興奮し、感動し、また落胆したりもする。
 これはギャンブルの性質を多分に備えた競馬に特殊な事態というわけではない。オリンピックやワールドカップといった世界規模の<スポーツ>大会を考えてみればいい。選手も観衆も何かに「賭けて」いる。そしてその賭けが媒介となってひとつの空間が編み上げられる。そんな出来事(イベント)として、現在の<スポーツ>は認知され、実践されている。
 現場に居合わせることすら、その出来事への参加の必要条件ではない。衛星放送などのメディアの発達によって、世界中のスポーツ・イベントにわれわれは参加することができる。さらに言えば、リアルタイムで経験しなくとも、寺山修司のエッセイや『Sports Graphic Number』における山際淳司や金子達仁のノンフィクション作品を通じて、<出来事としてのスポーツ>を過去にさかのぼって追体験することもできる。
 「なぜ<スポーツ>は面白いのか?」<スポーツ>の内部(競技自体の面白さ)にだけ答えを求めることはできない。ファンの個人的な性格などで説明するだけでも不十分だろう。それが社会の中でどのように認知され、そこで人々はどのような関係を築き、どんな経験をしているのか、また、そうした<スポーツ>のあり方は歴史的に見てどんな構造変容を経てきたのか・・・。
 切り口はいくらでもある。そして、その切断面を面白く見せることにこそ、<スポーツ>の社会学の可能性は「賭けられて」いるのである。