マンガを語ることの<現在>
 
                                瓜生吉則
 
1.はじめに:“マンガ表現論”の「失敗」をめぐって
 
 マンガについての語り(以下は「マンガ論」と総称)の拡がりを風景に喩えたとき、1980年代後半以降、そこにはある不思議な特徴を見つけることができる。一口に言ってしまえば、それは「表現への定位」である。1987年、「マンガを内側から批評の言語として語り出そうとする試み」として『マンガ批評宣言』なる一冊の書物が刊行された。「マンガ家」夏目房之介は、模写によって感得された「マンガはいかにしてマンガなのか」への回答を“マンガ表現論”として標榜するに至った。先の『マンガ批評宣言』の巻頭言を書いた四方田犬彦は、その宣言を『漫画原論』なる題名を持つ単著へと昇華させ、マンガ表現の自律的な構造を論じた。そしてこの流れのひとつの頂点として、1995年には『マンガの読み方』という「マンガ表現の百科全書」が刊行される。「わたしにとって興味深いのは、漫画が俎上にのせている多様な物語とイデオロギーのあり方である以上に、それらが他ならぬ漫画として表象され、漫画として存在しているという事実である」(四方田[1994:10])といった関心の方向性は現在、四方田個人に限定されることなく、マンガについて何事かを語る者たちの共通前提にすらなっているとも言えるかもしれない。
 『マンガの読み方』の中心編者にもなっている夏目房之介が“マンガ表現論”を標榜したのは、「[作品内に]描かれた人物やテーマをいきなり大衆社会の動向や大衆の反映像に読みかえてしまう」(夏目[1995:14])ような語り方では「マンガをマンガとして」評価し得ないと批判できるに足る、直感的でありながらも確信に満ちた議論の前提を獲得したからであった。夏目は「マンガの『思想』を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所に」([:124])見たいとして、マンガを描き−読むときにわれわれが依拠しているマンガの約束事=文法の解読にあたる。そのとき、「マンガ文法の巨匠[マイスター]」である手塚治虫が真正面から分析されることで、社会・時代の情況との関連で手塚を「戦後マンガの神様」として讃えて諒とするに留まることなく、戦後における「マンガ表現」の変容過程をも見通すことが可能となった。夏目の“マンガ表現論”は、時代情況や作者・読者の心性をマンガから抜き出そうとする議論、あるいは前出の四方田が関心外とした「マンガ内の物語とイデオロギー」に定位する議論の前提そのものを問い返すこととなったのである。
 「マンガ表現」を重視する傾向が拡がりを見せていることも、それはそれで興味深い事象ではある。しかし本稿で考えてみたいのは、“マンガ表現論”(以下では“表現論”と略す)の「流行」現象というよりはむしろ、その「流行」を支える認識の構造、特にその歴史的なあり方である。というのも、自身の視角に確信を抱いているはずの当の夏目が弱音とも愚痴ともつかぬ切実な言葉を吐露していることに、マンガを語ることの<現在>を探るひとつの糸口が見つけられるように思われるからである。
 「私や戦後世代にとっての『戦争』と戦後をさぐる一つの可能性になるかもしれない」との期待を抱きつつ、夏目は戦後マンガにおける「戦争」の描かれ方の変遷を辿ろうとした。しかしその過程において“表現論”がうまく使えなかったとする夏目は、次のように自らの論述を振り返る。
 
 もともとマンガ表現論という私のスタンスは、マンガを時代・社会的変化の単純な鏡のように扱う、短脈[ママ]的反映論への批判を含んでいた。本当ならマンガに時代を読む手続きは、もっと緻密な表現分析を土台にすべきだという思いがある。ただ、今、あえて反映論をとった背景には、私自身の今の日本に感じる閉塞感と、それを戦後史のなかでみなおしてみたいという個人的欲求があったことはたしかである。(夏目[1997:178-179])
 
 夏目はなぜ「あえて反映論をとった」などと、言い訳のような弁明をしたのか。そしてなぜ、かくも誠実な反省をしなければならなかったのか。「マンガのイメージの読まれ方を時代順に縫い合わせるという、相当恣意的な文脈にならざるをえなかった」([:176])とも述べているように、手塚マンガを分析したときの手際の鮮やかさは、確かにこの『マンガと「戦争」』には見られない。戦後の「時代・社会的変化」が先取りされ、それがマンガ表現に直接反映しているかのように読める部分も少なからず見受けられる。その点に限って言えば、“表現論”が消化不良のままで論証に「失敗」した、と評することができるかもしれない。
 だが、夏目の「失敗」をいきなり個人の思考や技量の未熟さに帰属させることは、ここでは留保しておく(マンガ論の理想的手法の存在を信じさえすれば、そうした非難は造作もなくできるのだから)。代わりに以下の論述では、次の仮説と課題を設定してみたい。『マンガと「戦争」』の「失敗」は夏目個人の問題というよりも、“表現論”という視角がはらむ問題(もちろん、これも「欠陥」といった意味での「問題」などではない)ではなかろうかという仮説。そして、「マンガをマンガとして」評価するための視角である“表現論”と、それが批判する“反映論”との関係を今一度問い直すために、戦後のマンガ論を俯瞰してみるという課題である。
 マンガ表現に定位することの有効性に確信を持ちながらも、「戦争」イメージの変容(ひいては、「戦後マンガ史」)を論じる際に、時代・社会の実態や個人的経験を持ち込まざるをえなかったことへの忸怩たる思い。夏目の実直すぎるまでの反省は、繰り返すが“表現論”の方法論的限界を示しているのではない。そうではなく、“表現論”の論証の手続きそれ自体の内では不問に付されていた、「マンガを語ること」の複数的なあり方が、ここで無視し得ない問題系として立ち現れてしまっているのである。“表現論”が「マンガをマンガとして」語るのに有効な視角として評価されながらも、同時に何かが欠落しているように感じられてもしまうような、<現在>のマンガ論を下支えする構造。この構造をおぼろげながらも析出するような考察が、以下の論述では目指されることになる(注1)。
 
2.「マンガ表現」の位相差
  −石子順造と“表現論”とのあいだ−
 
 “表現論”が模索・提唱される過程において目配りされていたマンガ論は、決して一括りにできるようなものではない。ただ、夏目も引用している石子順造の次の言明の中に、“表現論”が棚上げしたある重要な部分が含まれていることは、しばし立ち止まって考えてみる必要がある。
 
 マンガをマンガとして評価しえないでいるもっとも顕著な事例は、カーツーンについてその絵画性とモチーフを論じ、連続コママンガについてはもっぱらテーマを軸としてプロットを追い、背景になっている時代情況などを意味づけながら発場人物の性格を分析し、そして作家の思想性を論じるといった推断の手続きであろう。前者は絵画主義であり、後者は文学主義といってもよく、それもともに補完しあう近代主義にほかならない。(中略)問題は描くという行為そのもの、あるいは見るという受容それ自体の体験と、表現ないし思想との構造的な関係であり、そこでメディアの特性も問われるべきではなかろうか、ということである。体験や行為と関係のない表現・思想などあるはずもない。(石子[1970:51])
 
 「理念としてこう表明することは、この当時でも十分可能だった」としながらも、夏目は石子のマンガ論が「肝心のところへくると『民衆』だとか『反近代』とかいう言葉によりかかってしまい、結局は理念の表明と素描だけに終わっ」てしまったと批判する(夏目[1992:12-13])。石子に対する評価と同時に生まれた不満が、「描線」と「コマ」を重視する“表現論”への道筋をつけたということでもあろう。
 理想的なまでの“マンガ批評宣言”が石子の実際のマンガ論で本当に体現されなかったかどうかについては、とりあえず問わないでおきたい。代わりに本節で注目したいのは、両者の間で「マンガ表現」に対する感触が微妙に異なっている(ように見える)ことである。時代・社会の反映をすぐさまマンガに見出すことには共通して批判的であり、しかも「マンガ表現」が独自であるからこそ「マンガをマンガとして」論じる必要性を両者ともに見取っていながら、石子は夏目がとりあえずは棚上げする「(マンガを描き−読むという)体験や行為」にこだわる。戦後マンガの通史的な考察を目指す際にも、「ぼくは、ぼくなりに戦後日本のマンガを情況論的に点検してみたいのだ。マンガを、時代・社会の所産として、民衆の喜怒哀楽がどのように映し出されてきたか、だからなによりも表現のアクチュアリティにポイントをおいて、戦後マンガをふりかえってみたい」(石子[1975=1994:17)と、表現が表現として現出する「情況」の重視を明言する。
 石子の言う「情況論的」な考察とは、マンガが描かれ−読まれる「場」の考察作業を通じて《マンガを媒介項としたコミュニケーションのあり方》を浮かび上がらせていくことだった。1960年代の「劇画」は、例えば次のように説明される。「そもそもは、裸電球と土間に象徴される貸本店の書棚をびっしりうずめていた貸本マンガとして、劇画は劇画なのであった。そして、であることによってこそ、劇画はまた、すぐれて戦後日本のマンガであった」([:81])。「場」の特殊性を認められるがゆえに劇画は独自な「マンガ表現」たり得たのであり、逆に言えば、この特殊性を失ってマンガの一ジャンルに過ぎなくなったとき、「戦後日本に特殊的な情況の所産としてあった劇画は、欧米の大衆社会の娯楽商品であるコミックと同質の位相に転換していった」([:151])と嘆かれることにもなる。こうした感傷的な記述は確かに夏目が抱いたような不満や批判を生みやすいが、マンガが生産−流通−消費されていく過程に石子が定位しようとした事実だけは摘出できよう。
 また、石子が後年注目し続けた<キッチュ>に関する次のような言明にも、「場=情況」を重視する前提が示されている。「表現を芸術だけの問題と考えたり、あるいは伝達の本体としてのメッセージと手段としてのメディアといった発想では表現を捉えきれないと思うし、キッチュは、そのあいまいでたしかな活力によって、メディア論的にも主要な課題を内蔵しているはずだと信じられる」(石子[1971→1986:14])。銭湯のペンキ絵、マッチのラベル、小絵馬など、「近代美術」の世界では「まがいもの」として捉えられる様々な表現について、石子は定義ともつかぬ定義(注2)を与えた。「抜きがたい生活の一様式として、まさに現実と密着しているがゆえに現実を超えようとする想念の運動をつつみとって生成(werden)される」([:24])、いかがわしさを持つがゆえにあいまいで、だがその生産−流通−消費の過程において確実にわれわれの身体と関わり合う表現、それが石子にとっての<キッチュ>だった。そのとき、《何が表現されているのか》という問いと同時に(あるいは、それに優先して)、《表現されたものがいかに機能するのか》という問いが提出される。個人史的にはマンガ/劇画への注目の後に<キッチュ>概念が導き出されたわけだが、石子にとって「コミュニケーションの媒介項」としての<表現>のあり方が常に念頭にあったことは指摘できよう。つまり、「何を、どう描いたか、ということが、描き方とともに、描くこととして包括的に捉えかえされねばならず、その地平でしか作業の思想性は問題にならないと思う」(石子[1969:40])といった<表現>観こそが、1960年代の民衆・大衆の「身体性」を抜き難く刻印した表現としての劇画の分析へと石子を向かわせ、そして本節冒頭で引用した方法論の理想を語らしめたのである。
 さらに、同時期の鶴見俊輔が次のように述べていることも、別の角度から石子の<表現>観を考えるヒントとなる。「様式としての漫画は、現実の対象をそのままうつすのでなく、その対象のここに眼をむけて笑わせたいと思う部分を誇張して描くことをとおして、日常生活の中でならされた仕方で物事を見る精神に、衝撃を与える。それが、読者の精神にとって、さまざまの屈伸体操の機会を与える。その屈伸体操が、その人にとってたのしいものか、いくらかいやなものかは、作者と読者の相互の位相にかかる」(鶴見[1973→1991:108])。石子は鶴見の<限界芸術>概念における「芸術」観に対しては違和感を表明しているが(石子[1975→1994:20-22])、マンガが作者や読者の身体に働きかける様式、そして時には一種の「共同体」をも編制してしまう機能が重視されている点には、石子と鶴見の視角の通底面が見て取れる(注3)。「場=情況」の重視は作者−読者の身体性および主体性に関する考察を呼び込み、《何かを意味するもの》というよりは、《何かが意味されてはいるだろうが、それ以上に人々を結びつけるもの》として「マンガ表現」が見出されていたのである。
 言い換えれば、石子にとって「マンガ表現」は、ある体系的な文法に則ってペンが動かされた結果として現出したものである以上に(そのことを無視するわけではないにせよ)、そういうペンの動きを支える「(民衆の)身体」の産物であり、同時にある特殊な「情況」を生み出す媒介項として機能しているからこそ重要なのだ。このとき、マンガ家なりマンガ読者なりといった主体は、学生/非学生、ホワイトカラー/ブルーカラーといった階層性とも、また思想の到達度とも別次元の、生々しいまでの身体性を帯びて想定されることになる。ただしそのとき、マンガ家が何らかの「思想」や「意味」をマンガに刻み込んでいるだとか、読者が同じような「思想・意味」を受け取っているだとかということが前提されているわけではないことは付記しておこう。マンガは彼らの身体を絡め取り、独特のコミュニケーションを成立させているがゆえに、考察に値する重要な対象となっているのである。
 先にも触れたように、夏目は“表現論”によって「マンガの『思想』を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所に」見ようとする。一方、石子は「マンガはまちがいもなく、文学でも戯曲でも、演劇でも映画でもないカテゴリーとしてマンガであったとすれば、われわれはマンガの劇性を論じて、描かれた絵としての劇感を無視するわけにはいかない。それはむろん逆に、絵としてのイメージ体験にだけ、マンガの劇性を封じこめるわけにはいかない、ということでもある」(石子[1969a:33])として、マンガの「生理」性には夏目同様に着目しながらも、特定の表現が醸し出す(であろう)「意味・思想」への問いは棚上げする(注4)。夏目の目標に向かうことは回避していると言ってもいい。しかし、このとき両者のあいだには「マンガ表現」の特殊性についてというよりも、石子の言う「(マンガを描き−読むという)体験や行為」に関する見解の相違が存在しているのではないだろうか。この相違の要因は、必ずしも二人の個人的な性向に全面的に帰することはできない。考察すべきなのはやはり、両者を対立させているように見せてしまうマンガ論の構造の変化であろう。「理念として」評価しながら、あえて石子とは異なる視角であると夏目が言えてしまうのは、一体どのような認識構造の変化があったからなのか。石子と夏目とのあいだの距離、ひいては“表現論”の現在的な位置を析出するために、次に問われるべきは「石子以後」のマンガ論の変容である。
 
3.マンガをマンガたらしめる<わたし>
 −「マンガ読者」の繰り込み−
 
 「戦後マンガ史は、マンガを読みこんできた若い人たちの、それもできるだけ多くの人たちによって語られるべきだと知った。(中略)マンガ史論はマンガ『私論』であっていいはずだとも考えさせた」(石子[1975=1994:178])。『戦後マンガ史ノート』の最後に述べられたこの期待は、実にあっさりと応えられた。村上知彦、米沢嘉博、中島梓、亀和田武といった「マンガを読みこんできた若い人たち」が1970年代後半以降、次々と「私論」を提出し始めたのである。石子の病没(1977年)とほぼ時を同じくして登場した彼らは、「マンガがどう描かれているか、どんなコマで、どんな絵で描かれているか、そういうことを踏まえないとマンガの面白さを語ることにはならない、基本的にはそう考えて」(夏目[1995:14])いると見なしうる、まさしくマンガとともに成長してきた読者でもあった。
 村上知彦は、雑誌『COM』の投稿企画「ぐら・こん」とマンガ愛好者である<わたし>とが一体化していた幸福な時間を、「描くことと読むことと生きることはぼくらのなかでひとつだった」(村上[1979→1991:294])と振り返る。「まんがを『よむ』ということは、そのような全体性としてのまんがのただなかに身を置くことであり、そのなかで自分の位置をたえず確認しつづけることでもあった」([:315])。マンガという表現によって包み込まれた<わたし>の存在を高らかに謳えるほど、彼にとってマンガは身近なものだった。だからこそ、マンガを外側からながめるような語りを代表する鶴見や石子、あるいはその他多くの従来のマンガ論に対して、次のような不満と挑発が発せられることとなる。
 
 なぜ、まんがをほんとうに読んでいる当の本人である、ぼくたちのためのマンガ評論が存在しなかったのか。理由は簡単、ぼくたちがそれを必要としなかったからだ。べつに評論などと勿体ぶって、ごたいそうにあーだこーだ言わなくとも、一目見りゃわかるじゃねェか、というのがぼくらの見解だった。(中略)ぼくらには、交通整理や道案内としての批評など必要なかった。そして、そのような道案内を必要としている人々は、まんがを必要としていなかったのだ。(村上[1979→1991:326])
 
 村上は、「マンガは、つまるところ、論じたり、語ったりするよりは、ただひたすら感受することにこそ最もふさわしいメディアである」(中島[1978])という、正直すぎるほどの中島梓の告白に全面的な同意を表明し、「ぼくらのためのまんが評論」は「ぼくら」が喫茶店でおしゃべりをするように紡がれなければならない、という結論を導く。「ぼくらにとっては、(中略)まんがはまんがとしてそのまま社会であり歴史であり、あるいは社会や歴史や思想すらがぼくらのまえにはまんがとしてしか存在せず、そのなかで、自身がそれにどうかかわるかについて思いめぐらすしかなかった」(村上[1979→1991:330])のであり、文芸評論もどきの議論や社会現象としてマンガを取り上げたりするのは「ぼくたちのためのマンガ評論」などではないのだ。
 「マンガは『私』と『私』、つまり描き手と読み手が出会う場であるばかりでなく、重なる場でもある。そして重なるために、僕らは、いや、僕は瞬時に、そこで描かれているものを『すべて』なぞっていることに気がつくのだ。マンガを読むこととは、マンガを描くことの追体験であることがそこから出てくる。/読むことの快楽とは、すなわち描くことの熱狂でもある」(米沢[1987:179])と述べる米沢嘉博もまた、村上や中島と同じように、<わたし>がマンガと接することを重視する。この三人のみに1970年代後半以降のマンガ論を代表させることはできないが、彼らが一様に<わたし>を除外した、つまり外側からマンガを見ようとしているとして従来のマンガ論を批判していることは注目すべきことだろう。
 石子(および鶴見)にとって、マンガの読者でありつつ論者でもある<わたし>は必ずしも特権的な立場を持ち得ていなかった。だからこそ彼らは、たかが一人の「マンガ読者」にすぎない<わたし>を含み込んでしまう「コミュニケーション」のあり方にこそ照準し、その「場=情況」のありようを考察しようとしたのだった。彼らが、中島の批判するようなマンガを内在的に読むことのできない「おとな」だったのかどうかを詮索することは、本稿ではあまり重要ではない。問われるべきはむしろ、なぜ村上らにとって<わたし>の赤裸々な感想を含まない語りがマンガ論として物足りないと考えられたのか、ということである。マンガのマンガたる所以を<コミュニケーション>の様態の特殊性に見出す必要が、ここで全く不問に付されてしまえるのは一体どういうことなのか。
 彼らの依拠するマンガ読者としての<わたし>が、何にもまして「感受」の主体として見なされていることが、この疑問に答える手がかりとなる。彼らは「マンガ読者」であることに、開き直りにも似た自信と幸福を抱き、それを何のてらいもなく表明する。生まれたときからマンガを読んできた、というのもそれは十分に面白いからであり、これからももっと面白いマンガは生まれると期待できる。<わたし>はマンガを描き−読む主体であり、そのことは誰にも否定できないのだ・・・。マンガの特殊性など「一目見りゃわかる」のであり、外在的な分析概念など使わなくともマンガのマンガたる所以は説明できるのだ、と言い放てる<わたし>の感覚への絶対的な信頼があってこそ、石子の予期した「私論」を過剰に実践していくことが可能になる。「ぼくらは単に作品としてのまんがを読んでいるのではなく、ぼくらが読むことによって現れる状況のすべてをまんがとして読んでいる」(村上[1979→1991:314])のだ。このとき、「マンガ読者」はもはや論者の外部で対象化されることなく、<わたし>という絶対的な行為主体に繰り込まれることになる。
 マンガを語る視角のこのような変容は、石子が<キッチュ>概念をマンガや劇画に関して全面的に展開しなかった/できなかったという事実にもひとつの要因を見出すことはできる。<限界芸術>にせよ<キッチュ>にせよ、ある表現を媒介項としたコミュニケーションは、作り手と受け手とが交互に変換可能な「匿名性」を持っていることをその条件としていた。例えば石子が<キッチュ>の一事例として挙げた「小絵馬」は、誰が描いたのか、また誰によって享受されるのかは特定されない。<キッチュ>は「送り手と受け手といったふうの二元論的なコミュニケーション概念」があてはまらない、「送り手と受け手とを相互に媒介する機能としての表現」であって、「絵そのものがメッセージとして自立しているわけではない」(石子[1972→1986:312])のだ。しかし、小絵馬や落書きなどとは異なって、社会の中で大量に生産−流通−消費されるマンガは「送り手=マンガ家」の実名性に依拠するところが大きい。つまり、石子や鶴見がマンガを媒介項とするコミュニケーションの特殊性に照準し、一般の「受け手=マンガ読者」を分析対象として選んだ途端、作者−読者の交換可能性は、そして何よりも<わたし>の「感受」性は押しつぶさてしまうのである。
 その点、<わたし>一人の感想にすぎないことをむしろ積極的に語ろうとする村上たちは、この交換可能性を別の位相で実践する。彼らが「コミック・マーケット(コミケ)」に象徴される同人誌活動や「三流(エロ)劇画」誌でのゲリラ的表現活動に積極的にコミットした事実は、表現の「匿名性」に<わたし>という「実名」を与えることで、マンガの作者と読者とを循環させようとする運動だった。さらに彼らは、プロ・アマという立場を問わず、「自らも(マネするだけにすぎなくとも)マンガを描くマンガ読者」でもあった。だからこそ、<わたし>がマンガを「感受」したときの快楽は、かくのごとく赤裸々に表明されることになる。
 
 作品と読み手の極めて私的な蜜月の状態とは、作家と読者の蜜月でもある。読者はマンガを読み進める過程で、マンガ家と何処かで肉体的につながってしまうのだ。マンガを読むことは、肉体行為でもあるのだ。SEXといいかえてもよい。エクスタシー状態における波動の合致。−−−あろうことか、僕はマンガと寝ていたのである。(米沢[1997:196])
 
 彼らは、かつて権藤晋が藤川治水の白土三平論に対して行ったような、政治的党派性(イデオロギー)への違和感(権藤[1970])でマンガを評価したり非難したりはしない。「なんとなれば、あなたにとってのマンガは、僕にとってのマンガではないのだから・・・・・・」(米沢[:199])。あくまで<わたし>の思いを表明することが優先され、そこから「マンガ表現」の独自性を浮かび上がらせようとする彼らの語りは、確かに恣意的ではある。しかし過剰なまでに「恣意的」な彼らの語りこそが、「客観的」な“表現論”の前提を用意していたという逆説を見逃すべきではないだろう。「マンガをマンガとして」語る上で描線やコマ、吹き出しの形式や擬音などが重要な効果をあげていると言えるためには、それを「感受」するだけの資質を持つ<わたし>が確立されていなければならなかったのだ(注5)。
 本稿の議論はここでようやく、「漫画における物語の語られ方を考えるときもっとも心掛けるべきこととは、漫画に先立って、別個に自律した物語なるものが存在し、それが一定の手続きを経て、手際よく『漫画化』を施されるわけではない、ということだ。漫画には漫画に独自の説話行為のあり方が存在しているという、厳然たる事実といってもよい」(四方田[1994:29])という言明が説得力を持つ(ように見える)、現在のマンガ論の構造を考察するための足場を組むに至った。村上や米沢らが<わたし>という一人の「民衆」の感性に拠って立証した「マンガ表現」の特殊性、あるいは<わたし>が繰り込まれた「マンガ読者」の存在を前提にして“表現論”は成立する。『マンガの読み方』のような表現技法の百科全書的陳列が可能なのも、「マンガ読者」たる<わたし>が複数形で存在している(と<わたしたち>が信じている)からなのだ。
 だとすれば、本稿冒頭で見た夏目房之介の「反省」は、一体いかなる言説構造の効果として発せられたのだろうか。あるいはそれは、マンガという<メディア>の特殊性がもたらした「反省」なのか。本稿を締めくくるにあたって、《「マンガを語ること」の可能性》を最後の課題として考えていくこととしよう。
 
4.最後に:マンガの「メディア体験」へ
 −あるいは、マンガを<語る>とは何事か−
 
 前節までの論述を、「マンガ読者」の身体性を絡め取るコミュニケーションへのまなざし(鶴見・石子)を批判する中で<わたし>の「マンガ読者」への繰り込み(村上・米沢ら)が起こり、それを前提として“表現論”(夏目・四方田)が登場してきた、という流れでまとめることは可能である。ただし、この変遷は必ずしも「発展」を意味するわけではない。「発展」として捉えてしまった途端、夏目の「反省」は個人的な誠実さや“表現論”の「欠陥」にのみ帰せられてしまう。そうではなく、むしろ「(マンガを描き−読むという)体験や行為」に対するリアリティが様々な形で言葉にされてきた歴史として、「戦後マンガ論」を捉え返す視点が必要だろう。
 「体験や行為と関係のない表現・思想などあるはずもない」と石子は宣言した。この宣言を「理念としては」評価した夏目が“表現論”に至る過程において、村上や米沢と似た私的な「体験や行為」を経ていたことはよく知られている。それは、好きなマンガを「模写(マネ)」することである。「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」が表現の類型化を辿った経緯(夏目[1992:106,125])や、晩年の「ネオ・ファウスト」における描線の「衰弱」(夏目[1995:278-279])を指摘できたのも、「桑田二郎や関谷ひさしの異質な線よりはマネしやすいが、同じ系列の横山光輝や石ノ森章太郎よりマネしにくい」(夏目[1988=1992:76])手塚治虫のマンガを模写した「体験や行為」を夏目が持っていたからだった。夏目の“マンガ表現論”は、<わたし>が指を動かしてみるという「体験や行為」を通じて「感受」したことに付けられた名称なのである。言い換えれば、「マンガの『思想』を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所に」見るという視角は、現在ではいくら「客観的」な手法に見えようとも、その根源には<わたし>の身体性を抜き難く内包しているのである。
 マンガ論の系譜から見れば、次のように言い換えることができる。「体験や行為」におけるマンガ独特の「生理」感には同様に着目しながらも、表現の「意味・思想」への問いを石子が棚上げしたと第二節で述べたが、逆に夏目が「生理」から「意味・思想」へと向かっていけるのは、<わたし>語りによるマンガ論がドミナントになっている言説構造の中で“表現論”が出発しているからである、と。「(マンガを描き−読むという)体験や行為」が<わたし>によって担保される、つまり「マンガ表現」を通じて「ある意味が媒介されること」が前提にされているからこそ、「マンガ表現」の独自性が「意味」の位相でも論証可能となるのだ(注6)。
 “表現論”のこうした前提を踏まえたとき、本稿冒頭で取り上げた『マンガと「戦争」』の「失敗」の構造もまた見えてくる。夏目の“表現論”は、マンガ独自の表現技法が媒介する「意味」をどこかで前提にしている。しかしマンガに描かれた「戦争」をひとつのイメージとして結実するのは、特定の表現技法やそれが媒介する「意味」だけではない。様々な「体験や行為」を持つ読者がそれぞれに「感受」するからこそ、「戦争」は「戦争」としてイメージされるのだ。さらに広く言えば、マンガが「ある意味・思想の表現」として認知されるのは、そこに特定のコミュニケーションが成立しているからであって、その様相を通時的/共時的に問おうと思ったら、(方法論上の手続きでしかないにせよ)それを外側から見る必要が生まれる。しかし、その作業は“表現論”が最初に棚上げした部分なのだ。「あえて」反映論を採ったという夏目の弁明は、“表現論”がはらむこの「問題」に直面したからこそ吐露されたのである。
[1行アキ]
 さて、ではわれわれは“ポスト・表現論”を模索した方がいいのだろうか? 答えは、やはり「否」であろう。“表現論”が切り開いた地平は、別の視角を用意すればすぐさま埋め尽くされるほど狭いものではない。“表現論”が「マンガをマンガとして」語る上で有効に見える構造の中にわれわれが常に−既にいることを認識することからしか、<現在>のマンガ論は始まらないのだ。とすれば、独特の「体験や行為」をもたらす「マンガ表現」を語る可能性は、一体どこに見出せるのだろうか? 石子順造の次のような言明を捉え直してみるのも、次の一歩の足がかりになるかもしれない。
 
 むろんモチーフと無関係ではないが、画家の思想性ともいえる表現は、なにを、どう描いたかということばかりではなく、その空間表現から描線、さらには作品の発表の仕方から、生活のありようまで含むはずであり、作品に限っても、表現のありように即して、いっそう詳細な検証が必要である。(石子[1970:55])
 
 このように述べる石子は、<メディア>のモノとしてのあり方に執拗なこだわりを見せてもいた。例えば貸本マンガとしての劇画は、「うすよごれた手垢の感触と、あの貸出票の記入された数字にこそ、貸本というメディアの特性としてのアクチュアリティが、なによりも如実に示されてあった」([:254])と、第二節で見た「場=情況」とはまた別の位相から光を当てられる。ただし留意しておかなければならないのは、この論述は単なる物在崇拝[フェティシズム]ではない、ということである。モノとしての特殊なあり方がマンガを特殊な<表現>たらしめる十分条件というわけではないのだ。むしろ、何らかのコミュニケーションが成立しているとき(ただし、そこで「意味・思想」が十全に伝わっているかどうかは二次的な問題である)、モノの形態をとってはがれ落ちてしまう、その生々しいまでの様相が《表現のリアリティとアクチュアリティ》として捉えられているのである。
 振り返って見れば、模写によって手塚マンガを「感受」した夏目も、あるいは作者でもあり読者でもあることに言いしれぬ「快楽」を感じた米沢もまた、紙の上に現れたペンの軌跡によってマンガを「体験」し、それを言葉に代えてマンガについて語ったのだった。とすれば、「(マンガを描き−読むという)体験や行為」は、戦後のマンガ論に一貫して流れる問題であったとも言える。石子のマンガ論が外在的で古くさく、そして<わたし>の感性を言い当てたものではないと批判されたとしても、そうした物言いを可能にするマンガのあり方だけは(個々人によって程度差はあったとしても)ずっと継続してきたのだ。マンガを「悪書」として非難・糾弾する言説が延々と生き延びてきた事実(竹内[1995])もまた、この視点からなら説明できよう。「意味・思想」がどこまで表現に現れたか(テクスト分析)、あるいは読者がそれをどこまで「感受」しているのか(読者論)を考察することも重要な作業ではある。しかし同時に、様々な語り(分析・評価・非難いずれにせよ)を可能にするマンガの<媒介過程[ルビ:コミュニケーション]>に対する問いが、常に新たな課題としてわれわれに提出されていることを忘れてはならないだろう。
 もちろん、だからといって、石子の“情況−メディア論”と従来の“表現論”とを折衷すれば「最良のマンガ論」が出来上がるわけではない。もし両者を融合した結果が鶴見や石子らの視角の増補版であったり、“表現論”の改訂版であったするだけならば、意味伝達装置としてしかマンガを見ない、つまりマンガを透明な媒体にして議論を終わらせることになってしまう。繰り返しになるが、“表現論”を当たり前の風景として持つに至ったわれわれが新たに「マンガを語ること」に向かうとするならば、夏目の言う「メディア体験」(夏目[1997:4])、あるいは石子の言う「リアリティとアクチュアリティの統合」(石子[1971→1986:35])として「マンガ表現」を捉え返してみることが求められるのだ。「意味・思想」の伝達可能性を問い直す試みの中から、マンガをマンガとして、さらには<メディア>として考察していく「もうひとつのマンガの語り」が生まれるはずである。おそらくそのとき、マンガはざらざらとした、そして向こう側を簡単には見通すことのできないモノとして、われわれの前に立ち現れることだろう。
 
 
 
(1)先に断っておくが、本稿でのマンガ論の選択は全く網羅的ではない。それは議論の煩雑さを避けるためという消極的な理由とともに、マンガを語ることの<現在>を見据える上で、夏目らの“表現論”の視角を絶対視しないためである。マンガ論の「発展」を描くことは、だから本稿では目指されていないし、現在のマンガ論のきれいな整理も行われない。つまり本稿では“マンガ表現論”を現在的視点でのみ評価する「発展史観」を採ることなく、「マンガを語ること」の(不)可能性に関する考察を主旨としているのである。
(2)「すなわちキッチュは、呪術性、実用性などの要素をふくみ、美的でありながらいっそう倫理的で、個別的には礼拝的価値の対象でありながら一般的な日常生活、行為のありようの様式であり、時代とともに生まれまた消えながら、共同幻想をあやうく自己幻想に収斂させようとするメディアとしての力学構造を持った表現全般の呼称である」(石子[1971→1986:35])
(3)鶴見と石子との近接性については瓜生[1998b]を参照。
(4)石子は水木しげるのマンガに対する自らの解釈に関して、「ぼくの独断=論理化が僕の表現だというしかなく、そのような僕と水木マンガとのかかわりに、時代を逆写しにするしかない」と述べ、マンガの記号表現が持つ「意味」の解釈については最終的には放棄している(石子[1970:50-91])。
(5)1980年代後半、マンガ論の風景には記号論(物語の構造分析)や民俗学など、既成の知のマンガ論への導入を図る「流行」が見られた。だが、それを本節で取り上げてきた<わたし>語りの恣意性への反省や反動として捉えるのは単純な発展史観でしかない。村上や米沢らの<わたし>語りは、むしろそうした「学術的」な語りが有効に見えるような前提を用意したのであって、過去の稚拙な議論として葬り去られるような浅薄なものではない。マンガのマンガたる所以をわざわざ問うことなく、マンガ表現の同一性を信じることができるからこそ、「学術的手法」の(ある意味では安易すぎる)導入は可能なのだ。わざわざ名指しはしないが、こうした「流行」の中で発表されたマンガ論を竹内オサムは「悪しき科学主義」(竹内[1987])、呉智英は「衒学化」(呉[1990])と呼んで批判している。
(6)このような系譜に無自覚なまま、“表現論”を「道具」のように用いてマンガによる「表象」を論じただけの議論は、だから二重の意味で「犯罪的」である。“表現論”の「客観性」が誘発する「方法論の道具化」を示唆したものとしては瓜生[1998a]がある。
 
 
文献
 
呉智英 1990『現代マンガの全体像[増補版]』 史輝出版
権藤晋 1970「マンガ文化の風化と奈落」『現代の眼』1970年2月号pp.138〜145
石子順造 1967『マンガ芸術論−現代日本人のセンスとユーモアの功罪−』 富士書院
−−−− 1969a「疑似近代を告発しえたか 白土三平論」石子順造・梶井純・菊地浅次郎・権藤晋 『現代漫画論集』 青林堂pp.33〜44
−−−− 1969b「イメージのイヴェント 佐々木マキ論」『現代漫画論集』pp.211〜222
−−−− 1970『現代マンガの思想』 太平出版社
−−−− 1971→1986「キッチュ論ノート」『キッチュ論−石子順造著作集1』pp.6〜37(初出は石子順造+上杉義隆+松岡正剛編『キッチュ−まがいものの時代』ダイヤモンド社)
−−−− 1975=1994『戦後マンガ史ノート』 紀伊國屋書店(復刻版)
村上知彦 1979→1991『イッツ・オンリー・コミックス 黄昏通信[増補版]』 廣済堂文庫(原書は『黄昏通信[ルビ:トワイライトタイムス] 同時代のマンガのために』 ブロンズ社)
中島梓 1978「おとなはマンガを読まないで」『中央公論』1978年11月号pp.248〜257
夏目房之介 1988=1992 『夏目房之介の漫画学』 筑摩文庫(初版は1985年に大和書房より刊行)
−−−− 1992『手塚治虫はどこにいる』 ちくまライブラリー
−−−− 1995『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』 筑摩書房
−−−− 1997『マンガと「戦争」』 講談社現代新書
竹内オサム 1987「マンガ批評の現在−新しき科学主義への綱わたり」米沢嘉博編『マンガ批評宣言』 亜紀書房 pp.67〜83
−−−− 1995『戦後マンガ50年史』 ちくまライブラリー
鶴見俊輔 1973→1991「漫画の戦後思想」『鶴見俊輔集7 漫画の読者として』筑摩書房pp.89〜276(初稿は同名の単行本として文藝春秋より刊行)
瓜生吉則 1998a「夏目房之介はどこにいる」 『手塚治虫の冒険』小学館文庫版解説
−−−−1998b「<マンガ論>の系譜学」『東京大学社会情報研究所紀要』第56号 pp.135〜153
四方田犬彦 1994『漫画原論』 筑摩書房
米沢嘉博 1987「マンガの快楽−風景・線・女体・グロテスク」前掲『マンガ批評宣言』pp.178〜179