※原文の傍点は太字に変更

メディアとしての<梶原一騎>
−あるいは、“劇画の帝王”の語り方−
 
                                  瓜生吉則
 
一. 「再評価」という語り
 
 生前は戦後マンガ界の「暗部」を一身にまとわされ、揶揄および非難の対象になることの多かった劇画原作者・梶原一騎が逝って十年。彼は今、ようやく真っ当に論じられる「過去の人」となった。古本市場を高値で流通していた過去の作品は続々と復刻あるいは文庫化され、さらに七〇年代マンガのリバイバルブームの中で、暴力描写に満ち溢れた後期作品(後述する“ダーク梶原ワールド”)の発掘も行われつつある。そして去る八月には、その直筆原稿のみを総頁数四三〇余、箱入りB4版上製本として装丁した『梶原一騎直筆原稿集「愛と誠」』(風塵社)も上梓された。
 作画のためのノートに過ぎない「原作」をも商品として成立させてしまう梶原一騎再評価の風潮については、それだけでも論じられるべきテーマとなろう。しかし本稿で中心的論題としたいのはむしろ、昨今の再評価の「語り口」である。手塚治虫と異なり、梶原は生前(特に八〇年代に入ってから)は否定的な評価を受けることがしばしばの、悪名高き原作者であった。だから、「巨人の星」や「あしたのジョー」を初めとする大ヒット作を生み出した戦後日本の大衆文化人として再評価するというのなら話は分かりやすい。だが最近の梶原の再評価言説は、この「忘れられた巨匠」の作品群の中でも、必ずしも商業的に成功したとは言えないマイナーな作品を取り上げることで成立している。「発掘ブーム」の一環としてならば梶原一騎はあまりに有名すぎるし、ヒットに恵まれなかった作品をことさら取り上げる必要もないはずだ。にもかかわらずここまで執拗にその魅力が−しかもヒットしていない作品の魅力が−語られるのは、単に懐古趣味的オマージュの需要が高まったと見るよりも、それが可能となる語りの平面の成立として−言い換えれば、マンガ批評の地平の新たなる展開として−捉えるべき問題となる。
 さらに注目すべきは、梶原再評価の語りが総じてコトバに過剰さ−梶原本人の語りを反復するかのような「熱さ」という意味での−を帯びている点である。あるいは過剰であることに開き直っている、とまで言ってもいいかもしれない。マンガ批評という行為が<わたし>語りと抜き難く結び付いており、しかも一九七〇年代を多感な青少年として過ごした者たちにとっての忘れ難き過去として梶原作品が今なお(「トラウマ」としてでも)存在するからこそ、そうした過剰な語りが産出されていることは理解できないではない。だが、梶原を語る者たちのコトバが既存のマンガ批評の延長線上にありながら、しかし確実に質的な変化を遂げていることは、梶原論の内部のみならず、マンガ批評全体の系譜上で考察する価値のある問題となろう。
 夏目房之介はかつて、福井英一から梶原一騎に至る路線こそがむしろ日本の大衆娯楽としては正統派だったのではないかと述べ、手塚治虫を神格化しがちな戦後マンガ史観への疑義を表明した。戦後マンガ史における梶原の存在意義を再提起した(大塚英志は夏目よりも早く、梶原の生前にその意義を唱えていたが(1))という意味でこの直感的指摘は重要なのだが、同時に「私自身はやはり手塚の流れに属する人間で、正直に言って梶原路線には生理的違和感がある」という弁解にも似た述懐には、現在の梶原再評価の語り口を考察する糸口が見出せる(2)。原作者に「生理的違和感」を抱いてしまうという部分には、梶原一騎のコトバ/作品と、それをめぐる解釈の束(本稿ではこれを一つの言説空間として<梶原一騎>と呼びたい)の、ある種独特の効果が見えるのである。
 夏目が提唱する「マンガ表現論」は、従来ほとんど考慮されてこなかった表現そのものに潜む「思想」を標本学的な手法によって提示し、マンガ批評に大きな風穴をあけたわけだが、それは夏目が「親和」感を抱く手塚マンガの「記号」性に分類の前提を置けたからだった。しかし梶原作品はこうした客観的な整理を拒む。あまりに多くの解釈=言説が交錯し、しかもそれが一様に過剰であるという、コトバの異種格闘技場としての<梶原一騎>が成立しているからだ。今やマンガ批評のトレンドともなっている「表現論」の旗手にすら語ることが困難だと言わしめてしまう梶原作品とは、分析されるというよりも「体質」を感受されるべき何か、だと言ってもよい。文献学、評伝、表現論・・・といった様々な手法で分析してみれば、その姿の一側面は析出できても、全体像はむしろ霞んでしまう(全体像を把握することが批評なり研究なりの最終目標であるかどうかの議論はここでは措いておく)。こうした批評/研究の困難を知りつつも語らずにはいられない存在として、梶原一騎は現在「再評価」されている。だからこそ個人的足跡や具体的な作品からの考察と並んで、梶原一騎をめぐる語りの位相もまた考察されなければならないのだ。梶原を真正面から論じていく−それはマンガというメディアのあり方の考察にも連結する−ための基本線を示す作業として、いささか入念すぎるかもしれない準備運動に取りかかっていきたい。
 
二. 梶原一騎の「体質」
 
 「きみのためなら死ねる」と宣言するウラナリ秀才・石清水弘、自暴自棄とも取れる行動に邁進する「いらない人間」太賀誠、想いを寄せる女のために硫酸を自らの顔に浴びせかける座王権太、そして彼らの行動に敬意こそ払え、否定は決してしない早乙女愛と高原由紀。ながやす巧によって作画化された「愛と誠」に登場する少年少女たちは、作品冒頭に引用された「愛は平和ではない 愛は戦いである」というフレーズを体現すべく、険しき「純愛山河」を疾走していく。「巨人の星」や「タイガーマスク」に代表される一連の“スポ根”ものからの脱却が目指された「愛と誠」は、しかし相変わらず目標のためには脇目も振らずに我が道を突き進む少年少女の物語であった点で「梶原節」を充満させていた。また、早乙女愛が振りまく「精神主義」を真っ向から否定して太賀誠と対立する砂土谷峻の言動には、サディスティックな暴力描写を基調とするその後の梶原作品の予兆めいたものが匂い立ってもいた。
 石子順造はこの「愛と誠」が女子中高生を中心にヒットする情況を、五木寛之の翻訳によって同時期にベストセラーとなったリチャード・バック『かもめのジョナサン』を比較例としながら「危機」として解説した。「偶然と必然のすりかえと合一」による巧妙な物語展開と「異常とか狂気とかの倒錯的な美的肯定」をもたらす登場人物たちの類型化された性格付けとにヒットの一因を見出す石子は、しかし稀代の劇画原作者の手になる物語に内在するイデオロギーにではなく、それがウケてしまうという劇画の受容構造に「情況としての危機」を予感する。
 
 おそらく「原作者には意図的なものはないにちがいない」という点も共通して、ぼくは、「愛と誠」に、『かもめのジョナサン』と通じる求道的な「体質」を覚え、同時に、『かもめのジョナサン』の人気と「愛と誠」との人気を通底する「或る怖ろしい予感」をも覚えざるをえないのである。
 
 「表現を思想史的にとらえようとするなら、個別的な作品によって作家の世界観を問い、そこから時流に対処する一つの姿勢を推察してみるといった古典的なアプローチは、ほとんど意味をなさない」として、従来の社会反映論/作家論的マンガ批評を乗り越えようとする石子にとって、「愛と誠」という作品に原作者・梶原一騎の「意図」が反映されているかどうかは別段強調して取り上げるべきものではなかった。むしろこうした作品が水を欲する枯草の火種となり、大火(<ファシズム>)を招来する可能性を秘めている「情況」こそが危機的なのだ。<梶原一騎>が右翼的/反動的であるといった表層的な批判の空虚さに気付いているからこそ、そして作品の面白さは認めざるをえないからこそ、石子は苛立ちにも似た危機感を抱く(3)
 早乙女愛の献身ぶりがいつか報われるであろうという読者の期待を次々と裏切っていく梶原の「嗜虐趣味」と、そうしたメロドラマ展開への裏切りを逆に喜んで受け入れていく読者の「被虐趣味」との相互作用に「愛と誠」のヒットの構造があるとした菊地浅次郎の分析も、石子の苛立ちに共振している。暴力やエロスの描写が疑似的なものでしかないにもかかわらず同作品が面白く読めてしまうのは、「意識における中間層化、そこから来るアゲ底ゆえの飢え」が「情況」として蔓延しているからである(4)。今や出版資本に見事に取り込まれてしまい、生活者としてのアクチュアリティが滲み出る表現(だったはず)である劇画が<ファシズム>のメディアへと成り上がってしまった「情況」を、石子と菊地は曰く言い難い梶原一騎の「体質」から感じ取り、苛立ったのだ。
 もちろん、こうした「体質」は必ずしもテクスト分析なり社会反映論的分析なりを拒むものではない。例えば歴史的逸話をちりばめつつ「父権主義」的な教訓が繰り返し登場する「巨人の星」を復古主義的イデオロギーに満ちた作品として批判すれば(そこに「高度経済成長」という香味を加えてもよい)、梶原論のひとつ(表象としての「厳父」論?)を仕立て上げるのは造作ないことだろう。逆に、主人公・矢吹丈のライバルに過ぎない力石徹の死に対して発表された寺山修司の歴史的追悼文(5)、講談社で実際に行われた力石の葬儀、よど号ハイジャック事件での「われわれは“明日のジョー”である」宣言等を資料として、「あしたのジョー」と全共闘的「体質」とのシンクロを論じることもできる。しかしそのためには、次のような原作者の「解説」をとりあえずは無視しておく必要がある。
 
 要するに私が描きたいのは、よちよちロバにまたがり巨大風車めがけ突撃し、はじき返されるドン・キホーテである。はためは滑稽だろうが、バカに見えようが、本人は一生懸命な男の美でありロマンである。「柔道一直線」「あしたのジョー」「空手バカ一代」等々の主人公たちも、すべて然り(6)
 
 手塚治虫がマンガ批評−コトバによってマンガ表現を切り崩していく作業−に対してある種の恐怖を抱き、同時に恫喝めいた発言をした(7)のと対照的に、梶原は自らが作品に込めた「意図」を恥ずかしげもなく公表してしまう。「口幅ったいが私が「巨人の星」で日本中の愛するガキ共、全ガキ連にぶつけて訴えたかったのは、一つの「男の生きる道」である」と言ってしまえる原作者のアクの強さは、星一徹になり代わり人生相談を引き受ける(『少年マガジン』に連載された「星一徹のモーレツ人生相談」)ことでも見事に発揮された。原作者がかくも饒舌に「意図」を流布しまった後では、もはや同じ土俵で「意図」の持つイデオロギー性を批判してみたところで議論が噛み合うはずもない。作品の「解説」が原作者によって先行して示されていると、批判が時には茶々でしかなくなってしまうからだ。その意味で、作品に内在する(かもしれない)「意図」を敢えて問わず、その受容構造を問題とした石子の「愛と誠」論は他の凡百のマンガ批評とは一線を画していた。
 梶原が自らの「意図」に関する戦略にどこまで意識的であったかは定かではない。しかしここまで饒舌に作品の「解説」が加えられず、ただ作品のみが淡々と発表されたのならば、「意図」に関する批判あるいは需要の仕方もまた別のものとなったかもしれない(例えば、六〇年安保闘争とのリンクを指摘され続けた白土三平のように)。マンガ/劇画という表現様式の枠内に収まることなく「意図」を放散し続ける劇画原作者。だからこそ<梶原一騎>は「意図」を分析するよりも「体質」を感受するにふさわしい何かだったのだ。メディア論的志向を持ち、従来のマンガ批評を乗り越えようとした石子ですら、分析を半ば放棄するかのように「体質」の指摘に留まってしまったことは、<梶原一騎>のある異様な立ち現れ方を示唆していると言えよう。そのイデオロギー性を論難したり、それを受け入れる「読者」の保守/反動性を指摘することはそれほど難しくない。しかしなによりも梶原作品は「面白い」のだ。論者はその「面白さ」の前に一瞬たじろがざるをえない(たじろぐこともないのならば、おそらくその論者は梶原作品をまともに読めていないのだ)。石子や菊池の語り口は、<梶原一騎>に対するスタンスの難しさを示しているという意味で、現在に至る梶原論の系譜のひとつの参照点を成している。
 
三. “ダーク梶原ワールド”の発掘
 
 編集者への暴行と逮捕(一九八三年)による連載打ち切り・単行本の絶版という物質的事情と、「愛と誠」「空手バカ一代」クラスのヒットが生まれないという物語作者としての個人的事情から、七〇年代末から八〇年代を通じて梶原作品はしばらくの間「埋葬」されていた。パロディのネタ元として、時折マンガ読者の前で「陰干し」される時を除いて。
 連載当初は壮大なテーマを予感させながら結局は暗黒社会の陰謀史観に回収されるという、この時期の作品の典型的展開が読者に飽きられた(あるいは“格闘技界の仕掛人”事業への傾倒を通じて梶原の才能が「枯渇」した)という物語作者の側の事情だけで、「狂気の時代」の停滞を説明することはできない。むしろ、「すすめ!!パイレーツ」や「がんばれ!!タブチくん!!」などのパロディ/ギャグマンガの登場によって「梶原節」(“ドン・キホーテ”=「バカ」の賞讃)がマンガジャンル内部から相対化され、同時にそうしたマンガの文法が読者の側にも共有された−あるいは「面白さ」の感受のされ方が多層化した、と言ってもいい−からこそ、梶原作品は「埋葬」されたのである。「面白さ」を社会的「情況」に還元した石子の指摘と異なり、パロディ化の視線はマンガの文法を参照しつつ梶原作品の荒唐無稽さの布置を測定し、その「ズレ」加減を面白がるのだ。「情況」はマンガ表現内部に限定されているから、「体質」への共感も反発もここには微塵もない。
 マンガ批評の語り口の質的変化がこの面白がり方をさらに補強する。七〇年代後半以降の少女マンガ論勃興に端を発するマンガ批評の方法論的転回は、表現技法の歴史性に着目することで印象批評の段階を乗り越えようとする試みであり、「梶原節」もまた内容(イデオロギー)ではなくマンガ表現として対象化されることとなった。矢吹丈の「生き方」や太賀誠の「行動原理」への共感/違和感から「体質」を嗅ぎ出すのではなく、星飛雄馬の瞳の中の炎やタイガーマスクの特訓の無理さ加減を成立させるマンガとしての梶原作品のあり方が議論の俎上に乗せられるわけだ。ここでは表現の外部で過剰に付加される「意図」や、作品が醸し出す「体質」への読者の個人的な感想は、ノイズとして処理される。こうした外科手術的な処置に堪えうるだけのマンガ表現としての厚みは(「全盛期」においても)持っていなかった梶原作品は、手塚作品や少女マンガと同じ土俵に上げられてしまったが最後、そのハッタリの度合いのみに分析が施されてしまう。各種メディアでのパフォーマンスをも含んだ「体質」の次元でこそ熱く語られてきた<梶原一騎>に、表現技法レベルでのみ切れ味鋭いメスが入れられてしまえば、表現として現出しにくい「バカ」の魅力は「埋葬」されるほかない(8)。九〇年代前半に続出した「謎本」も、こうした冷静な(パロディ化を前提とした)視線に支えられていた。誰もが見覚えはあるが詳しくは覚えていない、過去の「名作」の重箱の隅をつつきながら「面白さ」を解読する作業にとって、荒唐無稽さの福袋であった梶原作品のマンガ表現は恰好の素材だったのである。
 だが、その作業の根本的な動機である対象への奇妙な愛情は、冷静な視点を装ったとしても覆い隠すことのできないものでもあった。「さまざまな矛盾を追求していく過程で発想が飛躍し爆笑したことが何度もあったが、決して馬鹿にしているのではなく、そこまで魂を挑発するその魅力に、結局感動してしまったのである」(9)。河崎実による「巨人の星」の謎の解説は、石子が「愛と誠」に抱いてしまったのと同種の、曰く言い難い梶原作品の「面白さ」あるいは「体質」を出発点としている。二人の語り口で異なるのは、その「体質」には違和感を覚えつつも感じてしまう物語としての面白さの理由に「情況」を挙げるのではなく、「体質」そのものがかくも無骨なまでに溢れ出てしまうところに「感動」し、しかも作品自体に魅力の源泉を預けてしまう点である。決して馬鹿にしていない、という言い訳はマンガ表現をパロディ化する際特有の照れを引き継いではいるのだが、パロディの行き着く果てにある、作品の再度の「埋葬」はここでは望まれてはいない。
 あるいはこう言い換えてもいい。石子がマンガ批評の<わたし>語りを回避すべく「情況(コンテクスト)」という説明項を用意したのに対して、河崎は「感動」する<わたし>を前面に押し出して梶原作品の魅力を語る。ただし新興の(それは「旧世代」にとって「難解」でもあった)マンガを理解できる<わたし>を特権化するのではなく(10)、誰にでも理解できる−その意味でも「巨人の星」は恰好の素材なのだ−作品の魅力に、読者を代表する形で「感動」してみせているのだ。分かりやすい荒唐無稽さをただ笑い飛ばすのではない。分かりやすいまでに荒唐無稽さを表現し尽くしている梶原作品に、いわばたじろぐように「感動」する作法の実例がここでは示されている。
 
  (『マンガ地獄変』表紙を図版として挿入)
 
 作品の醸し出す「体質」が再び注目されるようになったとき、梶原再評価の素地が用意される。一九九四年、高取英を中心にして『「梶原一騎」をよむ』(ファラオ企画)が編まれて再評価の機運は既に高まってはいたが、一九九六年の『マンガ地獄変』(水声社)の上梓によって、梶原論はひとつの語りの形式を獲得するに至った。『「漫画の神様」手塚治虫ではなく、「劇画の首領(ドン)」梶原一騎を選ぶマンガ暗黒史とは、つまり<マンガ地獄変>』。同書の表紙に付された煽り文句は、まさしく「埋葬」されていたがゆえに、今こそ語られなければならない梶原作品の発掘を宣言する。「人間兇器」、「カラテ地獄変」シリーズ、そして絶筆となった「男の星座」などを筆頭とする「暗黒(ダーク)」の作品群に対する「感動」のプレゼンテーションが堂々と開始されたのだ。
 メジャーな作品ではなく、正統的なマンガ史ではこぼれ落ちてしまう作品をこそ取り上げること。そしてその「体質」に照れたり、マンガ表現の標本箱に陳列したりするのではなく、一度その作品世界にどっぷりと浸かり切り、「感動」を赤裸々に表明してみること。“ダーク梶原”論における作品選択の基準は、世間的にヒットしたか否かではなく、梶原一騎の「体質」が滲み出ているか否か、である。なぜなら、かつて誰もが語らなかった暗部(ダークサイド)にこそ梶原の魅力は宿っており、論者もまたそうした作品にこそ梶原一騎の「体質」を嗅ぎ取るからだ。
 “ダーク梶原ワールド”の命名者・宇田川岳夫は、作品選択の理由として「商業的に成功しなかったからこそ、コマーシャリズムの制約を離れて、梶原が描きたかった何かがむしろストレートに描かれているのではないか」(太字は原文)という仮説を設定する。「狂気の時代」の作品に頻出する「暴力描写や淫虐描写に目を奪われることなく、その背後に隠された人間梶原一騎のメッセージを探ろうとする」こと。それは編集者暴行事件や有名女優とのスキャンダルといった実人生の反映を作品から読み取ることではなく、そうした作品を生みだした「梶原一騎という生き方」の本質を探ることである(11)。同様の作品群を“鬼畜世界”と名付け、同じく梶原の「体質」をそこから見出そうとする佐藤世紀も、自著の中で「梶原一騎の本来的な作品世界がここでは何の遠慮もなく描き尽くされている。だから、もちろんやけくそで思いがけない面白さはここには確実にある」(12)と述べる。やはり暗部にこそ「感動」の源泉は宿っているのだ。
 七〇年代マンガの発掘ブームが稀覯趣味に支えられ、そのフェティシズムが細部=暗部の特権化を可能にしているとしても、梶原が本当に「描きたかった」ことが“ダーク”な作品に宿っているかどうかはテクスト分析のレベルで証明されるわけではない。「ヒットしなかった作品の中にこそ、梶原の本音、梶原の人生が正直に現れているような気がする」(13)という前提はあくまで論者の恣意に過ぎない。しかし、作品の分析を通して梶原一騎の「意図」を把握するといっても、既に“ダーク”サイドを選択している時点で、作家の世界観をマンガ表現から再構成するという(石子が批判した)「古典的アプローチ」と“ダーク梶原”論はその前提を異にしている。マンガとしての表現は“ダーク”で“鬼畜”でありながら、その表層的な部分を原作者・梶原一騎の生き様の露呈として読者の側が読めてしまう事態こそ「面白い」のであって、本当の興味は梶原作品ではなく、「梶原一騎という生き方」にあるのだ。だから、妻・高森篤子、実弟・真樹日佐夫、盟友・大山倍達、付き合いのあった作画家や編集者らの「証言」(14)が、「ヘタな劇画の主人公よりも、梶原本人の生きざまの方が遥かに波乱に満ち、ドラマ性を感じさせる」(15)ことの傍証例として引用される。曰く言い難い「体質」を醸し出す膨大な作品群は、戦後日本を無骨に生きた一人の男=「梶原先生」の波瀾万丈な生き様が落とした“影(ダーク)”なのである。
 “ダーク梶原”論における細部=暗部の特権化は、「謎本」と同様に<わたし>語りへの開き直りを前提としている。「梶原一騎という生き方」に「感動」できるかどうかは、まさしく論者自身の個人的事情であり、だからこそ<梶原一騎>へのシンパシーを表明するためには、できるだけ無名の−過去に「埋葬」された−作品を素材として取り上げ、そこに梶原の「本音」が隠されているかのように言い立てておかねばならない。「梶原路線」をパロディによって笑い飛ばさないのならば、「梶原先生」への忠誠を語りの過剰さで示しておく、つまり「意図」を言祝ぐゲームに参加しなければならないのだ。ここでは「意図」は「梶原一騎という生き方」を言祝ぐための駒に過ぎない。<わたし>語りへの徹底的な開き直りが方法として「発見」されたことで、“ダーク梶原”論者たちは今、最大級の鉱脈である<梶原一騎>を過剰なコトバで「発掘」しているのである。
 
四. <わたし>語りを誘発するメディア
 
 七〇年代のジャンク・マンガをこよなく愛してもいる“ダーク梶原”論者たちは、八〇年代以降のマンガ環境の中でいわば「虐げられて」きた人々である。プログラム化され、マーケティングの論理を優先させて産出される「コミック」への「生理的違和感」を抱いてきた彼らは、今ようやく梶原へのシンパシーを堂々と表明することのできる場を獲得した(16)。彼らの過剰な語りはその意味で、六〇年代後半、同じように「虐げられて」きた石子順造ら『漫画主義』同人たちによる、劇画へのシンパシーを表明するために模索された語り口の延長線上にある。しかし、八〇年代のパロディ化の文法を通過した“ダーク梶原”論者たちは、マンガ表現が構成する「意図」の精緻な実証に向かう「表現論」と同じ土俵に立つことは巧妙に避け、徹底的に<わたし>語りを重ねている。実証的な「マンガ研究」を真摯に目指す人々にとって、こうした<わたし>語りはノイズとして封殺すべき対象でもある(「面白い」批評はアリ、という常識的見解は一応措いておくとして)から、そこで議論の平面を共有したら再び梶原を「埋葬」することに加担してしまうからだ。“ダーク梶原”論者たちは、現在のマンガ批評のトレンドである「表現論」に対しても「生理的違和感」を抱いていると言ってもよい。
 夏目房之介を旗振り役とした「表現論」は、手塚治虫の「マンガ=記号」説に依拠しつつ分析の精緻化=マンガの表現技法の百科全書化を目指してきた。そのとき、原作者としてのみならず、作品の解説者として「意図」を放散する梶原の言動は分析にとってノイズとしてしか測定できない。マンガ表現として現出しない「意図」(夏目の用語では「思想」)は一旦分析の枠外に置いておくのが表現論の第一原則だからである(17)。とすれば、特定のマンガ作品ではない<梶原一騎>を「面白い」と感じる読者の“マンガの読み方”について、表現論は有効な説明を与えられないことになってしまう。「梶原劇画が語りにくいのは、より本質的にはそれが原作という位相でマンガにあらわれているからなのだ」(18)と夏目は弁解するが、“ダーク梶原”に惹かれる者たちは、そもそも「マンガにあらわれた」梶原一騎の「意図=思想」だけに反応しているわけではない。むしろ彼らは、表現技法を冷静に分類していく手続きを通過するとこぼれ落ちてしまう部分にこそ「面白さ」を感じている。つまり、「表現論」が現在のところ唯一掬い取れていないマンガの「面白さ」こそ<梶原一騎>の魅力であると“ダーク梶原”論者は(直感的ではあろうが)気付いているのだ。彼らの過剰なまでの<わたし>語りは、その意味でマンガ批評のトレンドに対する「反省」、強く言えば「反動」をその動因としている。
 だからこそ、“マンガの読み方”をめぐる議論(読者論/読書論)にとって、<梶原一騎>が照らし出す部分の持つ意味は非常に大きい。“ダーク梶原”論者は梶原作品の「面白さ」に対して、石子のような苛立ちやためらいを抱かない。面白く読めてしまうのは「梶原先生」の生き様が作品に滲み出ているからであり、社会的「情況」がそうさせているとは考えないからだ(この部分は“ダーク梶原”論もパロディ化の文法を受け継いでいる)。そして、作品の醸し出す「体質」にハマり、その源泉として作者の「生き様」を想い描く、こうした“マンガの読み方”は、しかしそれほど特異なものではないのかもしれない。手塚の「マンガ=記号」説から出発してマンガ技法を陳列する語り口がむしろ傍流で、マンガ表現そのものだけでなく様々な言説を参照しながら「体質」に反応していく<梶原一騎>への接し方こそが、“マンガの読み方”として正統なのかもしれないのだ。<梶原一騎>はマンガを語ることの前提−マンガをマンガ表現のレベルで考えるという「常識」−を突き崩すかのような存在として、われわれの前に屹立する。「ぼくはマンガ家」というアイデンティティを確立してしまった手塚治虫がマンガ批評に与えた影響は、この点でも甚大だったわけである。マンガを少年小説や絵物語といった隣接ジャンルとの相対性の内で捉えていた梶原一騎は、われわれに「マンガを読むとは何事か」という問いを突き付ける。
 
 マンガというメディアが<わたし>語りを誘発することへの禁欲的対処法として、「表現論」という方法論的展開は始まった。しかし、その時忘れ去られたマンガ批評にとっての“ダークサイド”、それが梶原一騎という稀代の物語作者であり、彼が原作をものした作品群だった。かつて呉智英は、同じ原作者の手による「巨人の星」と「あしたのジョー」の人気のベクトルが、便宜的な作者名の違いに対応するかのように全く対照的であった事実を「逆説」と呼んだ(19)。その「逆説」は、マンガ批評における<梶原一騎>のあり方についても当てはまる。“ダーク梶原”論が喧伝する「面白さ」は、表現論に拠ってしまった途端に全く面白くなくなってしまうことがある。様々な“お約束”の指摘を通じてマンガの「面白さ」を語るための技法が、マンガを無味乾燥な技法の構成体として陳列してしまう「逆説」。あるいは、「梶原一騎という生き方」に対して過剰なまでの<わたし>語りを積み重ねてこそ作家論も作品論も初めて成立する「逆説」。
 「原作」という、読者にとっては永遠に触れることのないテクストを作画家に与える立場を選択し、同時に過剰な「意図」の産出によってそれ自体を無効化してしまう<梶原一騎>とは、存在しつつもその内実を測れない媒介項=メディアである。そこで提示されている(かに見える)「意図」にいくら多様な反応をしたところで、それぞれに対応する<梶原一騎>像が見えるに過ぎない。<梶原一騎>とは、いかようにも<わたし>語りが可能であり、しかも<わたし>語りによって初めて輪郭が形成されるメディアなのだ。
 “劇画の帝王”梶原一騎は戦後マンガの“影(ダーク)”的存在であった。しかし彼はマンガジャンルの落とす“影(ダーク)”でもある。<梶原一騎>は、われわれの前に今なお「逆説」として立ち現れている。

(1)大塚英志『[まんが]の構造 商品・テキスト・現象(増補新版)』弓立社、一九八八年(初版は一九八七年)、一三二〜一四四頁、を参照。
(2)夏目房之介『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』双葉社、一九九一年、一五八〜一五九頁。
(3)石子順造「危機としてのキッチュ−「愛と誠」考」『現代の眼』一九七四年九月号、五二〜六一頁。
(4)菊地浅次郎「梶原一騎と上村一夫 −その暴力とエロスの本体−」『現代の眼』一九七五年二月号、一五九頁。
(5)寺山修司「誰が力石を殺したか」『日本読書新聞』一九七〇年二月一六日号。
(6)梶原一騎「「巨人の星」わが告白的男性論」『文藝春秋』一九七一年一二月号、三五〇頁。
(7)大塚英志『戦後まんがの表現空間−記号的身体の呪縛−』法藏館、一九九四年、を参照。
(8)七〇年代の作品レベルでの「バカ」の盛衰については、加納則章「70年代は、美しき「馬鹿の時代」だった!」『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』宝島社、一九九六年、一二〜三一頁、を参照。
(9)河崎実と重いコンダラの会『「巨人の星」の謎』宝島社、一九九三年、二一五〜二一六頁。河崎個人による『タイガーマスクに土下座しろ!』(風塵社、一九九四年)も同様の視点から書かれた「謎本」である。
(10)例えば中島梓は「おとなはマンガを読まないで」(『中央公論』一九七八年一一月号、二四八〜二五七頁)において「マンガは、つまるところ、論じたり、語ったりするよりは、ただひたすら感受することにこそ最もふさわしいメディアである」と述べ、少女マンガを初めとするマンガを「読めない」おとなが分かったふりをしてマンガを語ることを強く非難し、マンガが読める<わたし>によるマンガ批評の登場を提唱した。
(11)宇田川岳夫「<ダーク梶原ワールド>の危険な魅力!!」植地毅・宇田川岳夫・吉田豪編著『マンガ地獄変』水声社、一九九六年、三一〜四二頁。
(12)佐藤世紀『梶原一騎の作品世界 隠された謎』山下出版、一九九七年、九三頁。
(13)宇田川岳夫『マンガゾンビ』太田出版、一九九七年、七一頁。
(14)斎藤貴男による秀逸な労作『夕焼けを見ていた男 評伝梶原一騎』(新潮社、一九九五年)は、数多くの「証言」が収められている点で“ダーク梶原”論の基礎文献となっている。
(15)岡本典久「梶原一騎論 悲劇の構造」木村修企画・編集『格闘技マンガ最強伝説』福昌堂、一九九六年、一一二頁。
(16)宇田川岳夫は前掲『マンガゾンビ』の「まえがき」で、おそらくは『週刊少年ジャンプ』をその代表媒体とするであろう「八〇年代のマンガ」を「燃やせ」とアジっている。
(17)例えば夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、一九九五年、を参照。
(18)夏目房之介「「言葉の反乱」−表現論的梶原一騎試論」前掲『「梶原一騎」をよむ』、五九頁。
(19)呉智英「逆説としての梶原一騎」高取英編『「梶原一騎」をよむ』ファラオ出版、一九九四年、七七〜八五頁。