マンガの非・場所:あるいは、梶原一騎と小林よしのりに架ける橋

<現実>のテーマが、魅力的なキャラクターによって演じられ、<マンガ>として現出する。劇画の世界において梶原一騎が“鬼子”であったとするならば、『ゴー宣』は「梶原劇画」のさらなる“鬼子”である、と言えるかもしれない。梶原の“鬼子”たる所以は、戦後マンガの体制内改革運動であった劇画を、活字主体の少年もの(少年小説や絵物語)の論理に引き戻そうとし、しかしそのことが劇画のアンチ・マンガ性を支えたところにあった。そのとき有効に機能したのは、活字として<マンガ>の中に登場する原作者・梶原一騎の言葉だった。そして今、小林は自らマンガを描く(この点で梶原とは異なる)言葉=活字の発信者として、梶原劇画がついに果たせなかった<現実>のマンガ化を果たしている。プロレス的解釈虚構と現実との往還運動(大塚1987,122-134を生々しい<現実>の世界においても可能にしたという点で、『ゴー宣』は紛れもなく梶原が死して後に現れた“鬼子”であるその受容構造が<マンガ>のリミットを踏み越える可能性を多分にはらんでいる、という意味においても。(瓜生[2001b237-238])

 

出発地:マンガを語ることの「ややこしさ」について

 

ある文化(現象)を取り上げ、その作家や作品のイデオロギーを分析したり、それを受容する現代社会(読者)の心性を探ったりする。それはそれで十二分に批評的営為ではある。だが、なぜ数ある文化(現象)の中からわざわざ(、、、、)<マンガ>という表現ジャンルを素材として取り上げるのか、という議論の前提条件が抜け落ちてしまうことがまま見られる。“表現論”という分析手法を立ち上げた一人のマンガ批評家は、この前提の無視がもたらしたマンガ批評の「貧弱さ」を溜息混じりに回想する。

 

彼らの多くがマンガをどう批評したかっていうと、たとえばアトムは戦後の科学万能信仰を象徴してるんだとか、『巨人の星』はいつも勝利がテーマになるから高度成長時代の反映なんだとか、描かれた人物やテーマをいきなり大衆社会の動向や大衆の反映像に読みかえてしまう。おおざっぱにいうと、マンガ批評って基本的にそういうことでした。(夏目[1995:14])

 

マンガを現代社会分析のダシに使うのはいい。しかし、なぜそのダシの素材がマンガなのか、そしてなぜイデオロギーや心性が(ある論者にとってはいともたやすく)抽出・解析できてしまえるのか。文学研究史でいうところの「形式主義」にまで回帰したかのように見える“表現論”が、1990年代になってようやくマンガ批評の分野で標榜・展開されたことの意義とは、逆説的な言い方にはなるが、その「透明性」を一度疑ってかからなければならないほどマンガが「読まれやすく、語られやすい」表現として一般的に認識され流通しているからだろう。あわてて言い添えておくが、内容など問題ではない、のではない。マンガ家のイデオロギー分析や読者の心性探究が無意味なわけでも全くない。確認しておきたいのは、繰り返しになるが、「なぜ(わざわざ)マンガなのか?」という問いを前提としない議論は「マンガ」批評たりえない、というごくごく単純な事実のみである。

小林よしのりの描く『ゴーマニズム宣言』を本報告で語ることの「ややこしさ」も実はここに由来する。日本語とマンガの文法とをそれなりに解している者ならば、『ゴー宣』は誰がどう読んでも特定のイデオロギーに染まった「プロパガンダ」に見える。見えるのだが、『ゴー宣』はいかにして<マンガ>なのか、となるとそうそう簡単に答えられないのである。『ゴー宣』を語る、というときに、最近の若者は知識も免疫もないから表現が巧みな『ゴー宣』にコロッとダマされるのだ、という批判はよく見られる。しかしそれならば、『ゴー宣』を踏襲したかのような「巧みな」表現形式を採っている『マンガ 日本人と天皇』(原作:雁屋哲 画:シュガー佐藤 いそっぷ社 2000年)が全くと言っていいほど話題にならないのはどうしたわけか。長引く不況下で閉塞した社会情況では「保守反動」的なイデオロギーが蔓延して、こうした「反体制」的なものは受け入れられない、というのも一面で真実なのではあろう。だが、一冊当たりたかだか数十万部ほどしか売れていないマンガに目くじらを立てる必要などない(初刷100万部以上のマンガなどざらに存在する)し、例の『100人村』など「良心的」な本がベストセラーになってしまうのもまた現代日本社会の情況である。内容が内容なのだから数十万部とはいえ大部数なのだ、という意見もとりあえず拝聴に値はするが、ここまで来ると先の夏目の溜息がまたぞろ聞こえてきそうである。そう、「内容」が問題(ただし、そのほとんどは「活字」として解釈された上での「内容」)だというのならば、どうしてわざわざマンガを、さらには『ゴー宣』なんぞを好きこのんで取り上げなければならないというのか。この堂々巡りこそ、『ゴー宣』を語ることが孕んでしまう「ややこしさ」である。

だから、ここはまずはいったん「作家/作品のイデオロギー」だの「社会/読者の心性」だのといった要素を棚に上げて(そして、それをいつ下ろすかは論者個々人の判断に任せて)、ある意味愚直に『ゴー宣』の<マンガ>としての輪郭を考えていく道を選択することにしたい。なぜならば、ある面で<マンガ>なるもののジャンル性を内側から食い破ってしまう「危うさ」を秘めていることに『ゴー宣』の不可思議な面白さがあり(蛇足ながら、上記『日本人と天皇』にはこれが決定的に欠けている)、その面白さを探っていくことで<マンガ>なるものの正体(あえて「本質」とは呼ばずにおこう)もまたおぼろげながら浮かび上がってくると考えられるからである。

 

補助線:石子順造

 

 「劇画」に、そしてその成立する<場>に過剰にこだわるマンガ=メディア論

 

マンガがメディアとしても、メッセージとしてもマンガでありうるのは、マンガに独自な表現の論理と可能性がありうるからであって、何かの代用としてではあるまい。・・・/マンガをマンガとして評価しえないでいるもっとも顕著な事例は、カーツーンについてその絵画性とモチーフを論じ、連続コママンガについてはもっぱらテーマを軸としてプロットを追い、背景になっている時代情況などを意味づけながら発場人物の性格を分析し、そして作家の思想性を論じるといった推断の手続きであろう。前者は絵画主義であり、後者は文学主義といってもよく、それもともに補完しあう近代主義にほかならない。/・・・問題は描くという行為そのもの、あるいは見るという受容それ自体の体験と、表現ないし思想との構造的な関係であり、そこでメディアの特性も問われるべきではなかろうか、ということである。体験や行為と関係のない表現・思想などあるはずもない。(石子[1970:50-51]

 

表現は送り手と受け手といった対立する二者の間で、送り手から一方的に投げ与え、受け手がキャッチするボールのようなものではない。受け手と送り手とを相互に関係づける、交通の構造とでもいえるありようの総体として理解されなければならない。劇画の母体であり温床でもあったといえるはずの貸本店で、貸本としてのマンガが、劇画を生み落としていく表現の力学は、送り手と受け手とを貫通する情況の思想的な検証からはじめられなければならなかったはずである。(石子・菊地・権藤[1973:188-189]

 

そもそもは、裸電球と土間に象徴される貸本店の書棚をびっしりうずめていた貸本マンガとして、劇画は劇画なのであった。そして、であることによってこそ、劇画はまた、すぐれて戦後日本のマンガであった。(石子[19751994:81])

 

石子ら『漫画主義』同人たちによるマンガ・劇画批評が「肝心のところへくると「民衆』だとか「反近代」とかいう言葉によりかかってしまい、結局は理念の表明と素描だけに終わっ」てしまった(夏目[1992:12-13])のは、一面で確かである。ただ、石子らはそもそも夏目の実践する“表現論”とは別の部分をマンガに見ようとしていたのだから、彼らがやらなかった/やれなかったことを現在の(“表現論”を手にした)有利な地点から批判(というより、論難)しても仕方がない(“表現論”が石子の視角をいかに繰り込んで成立しているかについては瓜生[2000]を参照)。

 石子らが注目した劇画、特に1950年代後半に小規模の出版社からゲリラ的に発行された「貸本劇画」は、確かに表現形式として洗練されているとは言い難いし、内容も「残虐」なものが多く、似たようなプロットが繰り返される「稚拙」なものではあった。しかし、1938年に内務省警保局図書課から出された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」の理念が、貸本劇画のみならず一部の手塚マンガすら弾劾の標的とする「悪書追放運動」として戦後も連綿と(21世紀になってもなお!)受け継がれている事実(竹内[1995]を参照)に端的に見られるように、マンガ・劇画を「内容」、というか、画から読者が恣意的に解釈した部分でのみ判断する(そして、「ダマされやすい」読者に代わって「悪書」を撃つ)物言いはなかなかもって侮りがたい説得力を持っている。1960年代の“政治の季節”、「インテリ」たちがこうした物言いを連発していたことは、上述したように「メディアとしてのマンガ」を考察しようとしていた石子にとって、なんとも哀しむべき事態であった。

 

当時およそ貸本店になぞ足を運んだことのないインテリが、ずっと後になって「忍者武芸帳」を読み、佐藤[まさあき:引用者注]その他の作品は俗悪だとみなしながら、「忍者武芸帳」だけは反権力闘争をマンガにしていて傑作だなどと手前勝手な評価をするとしても、それはマンガ表現の本体とはまったく無縁であることだけはたしかである。そういった手前勝手さは、いってみれば「忍者武芸帳」が生み出されてきた、そのマンガとしての表現を観念的に収奪してしまうようなものなのだ。・・・(中略)・・・いわば表現が表現として成立していく情況なり歴史なりを抜きにして、「忍者武芸帳」の政治性を語るものは、自らの不毛な政治性を公表する以上に何も語っていないのである。(石子[1975=1994:114-115]

 

くどいようだが、今一度繰り返して言っておこう。内容など問題ではない、のではない。「貸本劇画」の内容は確かに「稚拙」である。「残虐」で「低俗」でもある。しかし、そんな表現がなぜ大量に生産され、ブルーカラーの若年層に受け取られたのか。なぜ彼らは、暗い土間に並べられた貸本を手垢にまみれさせたのか。内容と読者の心性との共振。おそらくその通りだろう。ただ、それが戦後日本社会という漠然とした<情況>へと一元的に還元してしまったとき、マンガは、特にその発生・流通・消費が貸本店という<場>と抜きがたく結びついている劇画を語ることの積極的意義は見失われる。

 

いうまでもないが、政治的な事象を題材にしたマンガだからといって、それだけではなんら表現として政治マンガであることを保障されない。生活風俗を描いたマンガにだって、じゅうぶん政治は記録されるわけである。しかし、<繁栄>の上ずみを彩ど(ママ)ったマンガは、ついにどのような題材の中にも安保情況を描けなかったのだった。ただ唯一、貸本店での劇画が、その表現のありようとして、個別的な作家の意図を超えて、情況の重みと暗さとを生活者の怒りと痛みにおいて体現したといえるばかりなのである。(石子[1975=1994:112-113])

 

 <場>もしくは<情況>がマンガ・劇画に先立って存在するのではない。キッチュなる表現が「抜きがたい生活の一様式として、まさに現実と密着しているがゆえに現実を超えようとする想念の運動をつつみとって生成(werden)される」(石子[19711986:24])ように、物在としてのマンガ・劇画が手に取られ消費されていく空間こそが石子にとっての<場>であり<情況>であった。だからこそ、「劇画」が中央=東京の出版社に進出してそれなりの市場を獲得した1960年代半ば以降の<情況>は、作り手−受け手の身体性がはぎ取られ、大量に生産−消費される「商品」としての側面のみが強まっていく時代として批判されることになる。そのナイーヴさは今は問わないでおこう。石子が(そして同時に手塚治虫が)納得できなかった1960年代半ばからのマンガの<場>とはいかなるものだったのか。梶原一騎がマンガ史において意味ある存在となるのは、商品として消費されるマンガ・劇画のメディア性を(おそらく無意識に)体現したからにほかならない。

 

繋留点:梶原一騎

 マンガというメディアが<わたし>語りを誘発することへの禁欲的対処法として、「表現論」という方法論的展開は始まった。しかし、その時忘れ去られたマンガ批評にとっての“ダークサイド”、それが梶原一騎という稀代の物語作者であり、彼が原作をものした作品群だった。・・・様々な“お約束”の指摘を通じてマンガの「面白さ」を語るための技法が、マンガを無味乾燥な技法の構成体として陳列してしまう「逆説」。あるいは、「梶原一騎という生き方」に対して過剰なまでの<わたし>語りを積み重ねてこそ作家論も作品論も初めて成立する「逆説」。(瓜生[1997:114])

 

「意図」の放散:“表現論”の脱臼

 

「本来、私は少年小説作家である。現代の佐藤紅緑『ああ(ママ)玉杯に花うけて』を書きたい、山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸たりたいと志していた。」「「巨人の星」わが告白的男性論」『文藝春秋』1971/12 p345)

「要するに私が描きたいのは、よちよちロバにまたがり巨大風車めがけ突撃し、はじき返されるドン・キホーテである。はためは滑稽だろうが、バカに見えようが、本人は一生懸命な男の美でありロマンである。「柔道一直線」「あしたのジョー」「空手バカ一代」等々の主人公たちも、すべて然り。」(同 p350

 

 堂々と、あからさまに作品の「意図」を放散する劇画原作者・梶原一騎。彼が憧れた「熱血」少年小説の大家もまた、講談社社長・野間清治に“国士”として遇せられたことに意気揚々と応える「意図」の放散者であった。

 

私は諸君に此の世の中の活きた事件を精しく報告し、其上にこういうことは善い事、こういうことは悪い事と私の判断を添て提供したいと思ったのです。…(中略)…私は少年少女が大好きです、私は心の底から諸君を愛します、私の此の愛!私は此の燃ゆるが如き熱情は何とかして諸君を喜ばせ諸君に善い言葉を聞かせ善い行いをするように奮励させ、そうして諸君を立派な人物にしたいという希望を起こさせます。(佐藤紅緑 「私の小説に就いて」 『少年倶楽部』1928/12 p168-169

 

こうまで「意図」が先に語られてしまうと、形式から「意図」を探る“表現論”の立場はない。「私はもちろんテレ派であるから梶原論を展開するには愛が足りない」(夏目[1991159])という負け惜しみにも似た言い訳は、やはり同じように作家主義・作品主義を越えようとした石子順造とも共通する。

 

 おそらく「原作者には意図的なものはないにちがいない」という点も共通して、ぼくは、「愛と誠」に、『かもめのジョナサン』と通じる求道的な「体質」を覚え、同時に、『かもめのジョナサン』の人気と「愛と誠」との人気を通底する「或る怖ろしい予感」をも覚えざるをえないのである。(石子[1974:58]

 

 そう、梶原一騎とは作品の内容で語り尽くすことのできない、不思議な「体質」を備えた劇画作家なのである。4Bの鉛筆で律儀に升目を埋めた原稿用紙を作画家に手渡し、その一字一句たりとも修正を許さなかった傲岸不遜な原作者。活字レベルで彼の「思想」を云々することは何の造作もない。だが、作画家というフィルターを通して紙の上に定着させられた「活字」から、果たしてどこまで原作者の、そして作品の「イデオロギー」を抽出できるというのか。

 

19703月末、一週間の時を経て起こった二つの「事件」がわれわれをさらに攪乱する。

 

力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七〇年の時代感情のにくにくしいまでの的確な反映であると言うほかはないだろう。(寺山[1970])

 

我々は、この歴史的任務を遂行しうることを誇りに思う。我々は、日本の諸同志に、心から感謝する。この歴史的任務を我々に与えてくれたことを。我々は、我々の与えられたこの歴史的任務を最后まで貫徹するだろう。日本の同志諸君、プロレタリア、人民諸君!/全ての政治犯を奪還せよ!/前段階武装蜂起を貫徹せよ!/前段階武装蜂起F世界革命戦争万才/共産同赤軍派F万才/そして最後に確認しよう/我々は“明日(ママ)のジョー”であると。(田宮[1970:282-283])

 

さらにもうひとつ、こんな「神話」も戦後マンガ史には転がっている。あるとき、手塚治虫がアシスタントに訊ねた。「このマンガのどこが面白いのか教えてくれ!」。わなわなと震える“神様”の手には、『巨人の星』がしっかと握られていた・・・。

真偽は別として、この「神話」は先の夏目の言い訳と共振する。作品=テクストとしてマンガを標本学的に分類する“表現論”の何よりの手本は、マンガ=記号説を唱えた手塚であった。ある基本形態の様々なバリエーションとして<マンガ>は構成される。「内容」などはそうした記号の取り替えによっていかようにも表現できる。そう信じる手塚にとって理解しがたかったのは、梶原作品に込められた「内容」などではなく、『巨人の星』のような物語がどこで生まれ、どのように受け入れられるのか、言い換えれば、作者の「体質」が漏れ出してしまう野暮ったい絵柄の、しかも説教臭い活字が横溢するマンガが芽吹く土壌=<場>だったのではないか。

『あしたのジョー』が“政治の季節”とリンクして語られ、『巨人の星』が高度成長のエートスとして解釈される。その是非は措くとして、まずはあの頃の『少年マガジン』の持つ<場>の特殊性が勘案されなければなるまい。横尾忠則がコラージュした奇抜な表紙、大伴昌司が企画・構成する特集記事、貸本時代のアングラ性を昇華させた白土三平やさいとう・たかをの劇画、谷岡ヤスジや赤塚不二夫のシュールなまでのギャグ。当時の『マガジン』読者は、紙の束として形態上は統一されてはいるが、「理念」を共有しているとは言い難い「雑」な誌面を定期的に消費していく習慣を培っていった。“右手にジャーナル、左手にマガジン”という当時の標語は、だから、「思想とサブカルチャーとの境界の融解」としてではなく、雑誌という媒体が(たとえ夢想的なものであれ)「連帯」を可能にさせたことの痕跡として解釈すべきである。

そんな媒体においてこそ、梶原一騎は「内容」的には正反対の二つの物語=『巨人の星』と『あしたのジョー』とを同時に連載することができたのだった。そして、当の梶原はと言えば、「劇画」の線ひとつ描かない原作者でしかない。ここには、かつて生活者の身体性を抜きがたく内包していた「貸本劇画」のアクチュアリティはない。「1枚の絵は1万字にもまさる」とマンガの情報量を喧伝し、「劇画」にまばゆいばかりの陽を当てた『少年マガジン』が、こつこつと原稿用紙を埋めていく「1万字」の原作者によって代表=表象されてしまう事態。それはやはり逆説と言うほかない。

再び繰り返そう。内容など問題ではない、のではない。いかなる「内容」を持った表現であれ、それがどこでどのように現れるのかによって「メッセージ」作用が異なるのは当然のことである。さらに言えば、それを受容する主体=読者もまた<場>に規定される。1960年代後半から70年代初頭にかけて『少年マガジン』という出来事に集った読者は、「劇画(メディア)リテラシー」とでも呼ぶほかない何かをそこで体得し、奇妙な連帯感を後々まで抱き続けることになったのである。

先に掲げた標語にはもう一つのヴァージョンがある。“手にはジャーナル、心に(、、)マガジン”。

 

彼岸:小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』

そして、<熱血>の作家・梶原一騎が再評価されつつある現在。作者=語り手の強烈な存在感は、例えば小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』シリーズで見事に引き継いでいる(毀誉褒貶の激しさまで!)。さて、この事実は日本社会の右傾化・保守化を象徴しているのだろうか? 一面ではそうかもしれない。しかし、『ゴーマニズム宣言』がかつての『少年倶楽部』や『少年マガジン』にも似た、一種のメディア性を備えていることは決して偶然の一致ではない。作者が語り手としてマンガの前面に登場し、読者を巻き込んだ形で(ときに独善的な)主義主張が披瀝される。その結果、共感・批判双方の熱いやりとりが生まれてしまう。そう、『ゴーマニズム宣言』は現在、孤軍奮闘しながら<熱血>を体現している「一人メディア」なのである。(瓜生[2001a:310]

 

『ゴーマニズム宣言』をひとつのテクストとして語る。その「反動」性を「活字」から読みとり、“カリスマ”として君臨する作者の姿を「図像」学的に抽出する。なるほど、それは全くもって正道であり、手つきとして間違いなどどこにもない。だが、抽出されるべき「イデオロギー」がすでに『ゴー宣』に内在しており、あとはその「巧みな」表現を解体するだけだとして、論者はどのようにその「イデオロギー」を取り出しているのか。マンガは活字よりも「わかりやすい」からそんなことは簡単? ならば“表現論”はわざわざそんな「わかりやすい」マンガ表現を難しく陳列し、その効果をあれこれと並べる不毛な作業を重ねているだけだとでも? さらには、マンガ家自身がわざわざ次のように「マンガの何たるか」を説明するのは、いったいなぜなのか。

 

「漫画はわかりやすいから良い」としか思ってない者は漫画をバカにしているのである 漫画の核はキャラクターである キャラが立って読者が感情移入できたらその漫画は成功し ヒットする ほとんどの読者は漫画の中の「よしりん」というキャラの語り口に信頼を寄せてるだけだ 単なるわかりやすい絵解き漫画に魅力はない モチベーションが弱いからだ 『ゴー宣』をプロパガンダに利用しようとしたら 後で恐ろしいことになるだろう···(『新ゴー宣』第6巻111頁)

 

 一点だけ、小林に反論しておこう。どれだけ作者が理屈をひねり出しても、『ゴー宣』は「わかりやすい」。これは否定できない事実である。ただし、「作品や作者のイデオロギーを抽出する(ことができると前提する)のであれば」、という但し書き付きで。その容易さと言ったら、梶原作品の比ではない。

ここで『ゴー宣』が「時代の閉塞情況」などと関連づけられながら批判されている現状を改めて想起しよう。多くの『ゴー宣』論は、作品や作者の「イデオロギー」批判の形態を採りながら、同時に(、、、)「商品としての危うさ」を指摘する。それが当たっているのかどうかはどうでもよい。ある「メッセージ」の作り手と受け手がいて、両者の間で様々な「意味をめぐる闘争」が繰り広げられる。社会情況なり個人/集団の心性なりへとその内実が還元されていくかどうかをさておけば、これはもはや単体の「マンガ=作品」の語り口ではない。石子が常に重視していた「マンガ=メディア」の語り口である。

そう捉え直してみれば、連載当初から好意的に『ゴー宣』を評価してきた批評家による次の言葉にも合点がいく。

 

最近の『ゴー宣』はマンガとしてあまり面白くはない。なぜならば、『ゴー宣』は狭義のマンガの枠をはみ出し、マンガ以外のものになってしまったからだ。そして、そのマンガ以外のものとしてハラハラするほど面白い。ある作品がマンガとして面白くなければならないという理屈はないし、あるマンガ家がマンガ家としてのみ評価されなければならないという理屈もない。マンガの枠をはみ出した何かとして、マンガ家の枠をはみ出した何者かとして、かつてなかったほど面白ければそれでいいのだ。(呉1998,144­145

 

『ゴー宣』は「狭義のマンガの枠」、つまりあるタイトルや作者名が付けられた「作品」としてのマンガからは抜け出て(転げ落ちて)しまい、今やそれ自体がひとつの<メディア>になっている。「ダマされない」ための処方箋が繰り返し配られるのは、作者と読者とが擬似的な共同体を編制している(ように見える)からであり、“表現論”(表現の「巧みさ」の指摘)と“商品論”(受容の構造)とを二つながらにして勘案しないとその正体がつかめない(ように見える)からなのだ。『ゴー宣』が「わかりやすい」と感じられる人にとっては、おそらくテレビの「暴力シーン」の影響やインターネットの「双方向性」などもまた「わかりやすい」事例となるのであろう。そこでは<メディア>なるものの透明性が何の疑念もなく信じられているのだから。

振り返ってみれば『ゴー宣』はあのオウム騒動の最中、かつて蜜月関係にあった『SPA!』から追い出され、今また『SAPIO』で煙たがられている。また、そもそもの誕生からして、『おこっちゃまくん ヤング編』が『月刊宝島』を飛び出した結果であった。<一人メディア>の面目躍如、というか、これが媒体−内−媒体が辿る必然的な経路なのだろう。作者と読者とが(毀誉褒貶様々な形態で)相互作用を重ねる<場>。<メディア>性を重視するという石子順造の理想のマンガ批評は、あるいは『ゴー宣』によって初めて達成されたと言えるのかもしれない。戦後マンガの「逆説」として屹立した梶原一騎が死して後に生まれ出た鬼子、『ゴーマニズム宣言』をそう呼ぶ所以である。

 

もう一度だけ繰り返そう。内容など問題ではない、のではない

 

そして、マンガの非・場所へ

 

なぜ、「たかがマンガ」(©大月隆寛)にかくもこだわるのか? この問いを常に目の前に掲げ、素材の奥行き(もしくは絶望的な薄っぺらさ/底知れぬ浅さ)に裏切られ続けながら、しかしそれでも「<マンガ>とは何か/マンガを<語る>とは何事か?」という問いを前進/漸進させていくこと。倫理的な綱領を提示するつもりはないし、その技量も度量も持ち合わせてはいないが、「たかがマンガ」を語る<作法>とは、おそらくそうした難儀な課題を引き受けることからしか身に付かないものであろうし、また、安易な「方法論」に寄り掛かった途端にこの根元的な問いは「洗練された研究」にとってのノイズと化してしまうだろう。

あるときはテクストとして、またあるときは商品として紛いもなく現前しながら、その「正体」をとらえようとすると身をかわしてしまう、まるで逃げ水のような存在。手持ちの材料で以てその「非・場所」にとりあえず橋を架けてみると、結果として設計図も出来上がっている、そんな試みを石子に倣って「マンガ=メディア論」と呼んでおくのもいいかもしれない。

 

<マンガ>の全領域をカバーするという永遠の夢にまどろみながら、しかしその境界=限界(リミット)の襞を内側から描き続けること。「たかがマンガ」を語ることの可能性は、おそらくこの一点に賭けられている。

 

 

引用文献

石子順造 1970 『現代マンガの思想』 太平出版社

──── 19711986 「キッチュ論ノート」 『キッチュ論 石子順造著作集第一巻』 p6-37 喇嘛舎 初出は石子順造・上杉義隆・松岡正剛編『キッチュ−まがいものの時代』 ダイヤモンド社

──── 1974 「危機としてのキッチュ−『愛と誠』考」 『現代の眼』1974/9 pp.52-61

──── 19751994 『戦後マンガ史ノート』 紀伊國屋新書

石子順造・菊地浅次郎・権藤晋 1973 『劇画の思想』 太平出版社

呉智英 1998 『マンガ狂につける薬』 メディアファクトリー

夏目房之介 1991 『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』 双葉社

───── 1992 『手塚治虫はどこにいる』 ちくまライブラリー

───── 1994 「「言葉」の反乱−表現論的梶原一騎試論」 高取英[編]『「梶原一騎」をよむ』 ファラオ企画 pp.54-67

───── 1995 『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』 筑摩書房

大塚英志 1987 『[まんが]の構造』 弓立社

田宮高麿 1970 「我々は“明日のジョー”である」 『文藝春秋』1970/6 pp.276-285

寺山修司 1970 「誰が力石を殺したか 「あしたを」破産させられたあしたのジョー」 『日本読書新聞』1970/2/16

瓜生吉則 1997 「<メディア>としての梶原一騎 あるいは“劇画の帝王”の語り方」(『ポップ・カルチャー・クリティーク@』 青弓社 pp.103-115

──── 2000 「マンガを語ることの<現在>」 吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』 せりか書房 pp.128-139

──── 2001a 「「熱血」の系譜」 『週刊朝日百科 世界の文学110 マンガと文学』 朝日新聞社 pp.306-310

──── 2001b 「<マンガ>のリミット−小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって」 宮原浩二郎・荻野昌弘編『マンガの社会学』 世界思想社 pp.221-245