※原文の傍点は太字に変更

<マンガ論>の系譜学 
瓜生 吉則
 
1.繰り返される批判
 −「反映論」対「表現論」という図式−
 
 現在、精力的に「マンガ表現論」を展開している夏目房之介は、その手法を始めたきっかけとして従来のマンガ論への次のような不満を挙げている。
 
 彼ら[文芸批評家、映画評論家、あるいは美術評論家:引用者注 以下同じ]の多くがマンガをどう批評したかっていうと、たとえばアトムは戦後の科学万能信仰を象徴してるんだとか、『巨人の星』はいつも勝利がテーマになるから高度成長時代の反映なんだとか、描かれた人物やテーマをいきなり大衆社会の動向や大衆の反映像に読みかえてしまう。おおざっぱにいうと、マンガ批評って基本的にそういうことでした。(夏目[1995:14])
 
 夏目の言を引き継けば、「あしたのジョー」における敗北への憧憬を全共闘運動の心情とからめたり、「ドラゴンボール」の勝利至上主義を高度情報化社会のマーケティング戦略の結実とするようなマンガ論も同様に批判されるべきなのだろう。「作家の「思想」なんつっても、技術を含む表現が、理念を可能にしなけりゃ意味がない。むしろ、どんなごたいそうな「思想」を作家がもってようと、描線やコマ構成っていう表現が、具体的に理念を表現し得ていなければ、評価にあたいしない。だから僕はマンガの「思想」を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所にみたい」(夏目[:124])という問題意識から「表現論」を展開する夏目にとって、時代や社会、大衆の意識の「反映」をマンガの中に見出そうとするだけの議論では、マンガという特殊な表現を論じたことにはならない、ということになる。
 綿密かつ律儀な手法でマンガの「文法」の解明に当たった四方田犬彦もまた、「漫画批評のなかから「文学」などといった曖昧なものを追放し、漫画を漫画の自律的構造のもとに語らしめたい」(四方田[1995:295])として、マンガを絵画の下位文化とするような美術史家や、社会現象を反映する資料としてマンガを用いる厳格な社会学者との違いを強調している。さらに、村上知彦は夏目や四方田より十五年以上も前に、「まんがのなかに思想や歴史意識や、文学にでもまかせておけばよいようなものを読み込む文芸評論」や「[まんがを]社会学的興味の対象としたりしてみせる、まんが自体とは無縁の社会現象論」など「ぼくたちのためのまんが評論」ではなかった、と従来のマンガ論を切って捨てている(村上[1979:73-82)。
 しかし、直接名指してはいないが、夏目らがおそらく想定しているであろう“美術評論家”石子順造は、夏目の批判に先立つこと四半世紀前、村上の批判からも十年近く前に、マンガ論をめぐるメタ批評を行っている。
 
 マンガをマンガとして評価しえないでいるもっとも顕著な事例は、カーツーンについてその絵画性とモチーフを論じ、連続コママンガについてはもっぱらテーマを軸としてプロットを追い、背景になっている時代情況などを意味づけながら発場人物の性格を分析し、そして作家の思想性を論じるといった推断の手続きであろう。前者は絵画主義であり、後者は文学主義といってもよく、それもともに補完しあう近代主義にほかならない(石子[1970:51])
 
 石子の言葉をここで引用したのは、その「先見性」をことさら強調するためでも、また、夏目や村上が石子の「先見的」な批評を無視したことを非難するためでもない。マンガ論の<歴史>を書こうというときに、われわれが暗黙の内に前提としてしまう<現在>の認識枠組に対して本稿は意識的でありたい、ということを示すためである。
 本稿は、戦後マンガ論の主要な言説を整理しながら、その「発展」を段階的に説明することも、また、その理論的対立を「解消」することも目指してはいない。第一に、そうした試みは既になされているという物理的な理由がある。竹内[1987]や呉[1990]は、(石子を含む)戦後のマンガ論を整理しつつ、1980年代後半に流行した(構造主義、わけても記号論的手法を用いた)マンガ論の傾向をそれぞれ「悪しき科学主義」「衒学主義」と名づけ、マンガ論は以前の印象批評やイデオロギー的主張から一応の脱皮を見せつつも、今また新たな隘路に迷い込んでいる、と結論する。相互参照の慣例を持たないマンガ論の百家争鳴状態のなかで、雑駁ながらも「いかにマンガは語られてきたのか」という問題意識を持ちつつ行われた彼らの整理は、“戦後マンガ論史”の試みとして一定の価値を有している。こうした議論に1990年代の動向を書き加えるだけでも、仮に“マンガ学”なる学術ジャンルが存在するとすれば、それなりの価値を認められよう。
 しかし、マンガ論が質的向上を果たしてきた、あるいは今後果たすべきである(そして、論者が今後の方向性を示す)といった主張を最終的な着地点とした議論は、過去の言説の「欠点」を解消しているかのような<現在>を暗黙のうちに前提としてしまう。あるいは、「印象批評/分析批評」「世代論」「悪しき科学主義」・・・(いずれも竹内[1987])といった呼び方をして過去のマンガ論を特定の対立図式の中で整理してしまうと、それらが当時持っていたであろう、マンガに対するリアリティの厚みは押しつぶされてしまう。
 だからこそ、本稿では石子を無視する言説への批判に流されて、その「先見性」を躍起になって評価することにも慎重とならざるをえない。問われるべきなのは、石子のマンガ論(さらには、石子に先行するマンガ論)が<現在>からは批判・却下されるべき「非・表現論」的なものとして見えてしまうということ、別の言い方をすれば、マンガ論の「正しき」発展−「表現論」こそがマンガを真っ当に論じる正当な方法であることを前提にした−にとっての徒花程度のものとして過去のマンガ論を扱ってしまう、<現在>の認識枠組の効果なのである。
 
 具体的な記述の前に、もう一度本稿における問題意識を整理しておきたい。マンガはこの五十年間で量的拡大を果たした。それに伴ってマンガ論もまた数多く提出されてきた。本稿が目指すのは、過去のマンガ論の良否を裁断しつつ一本道の<歴史>を書くことではなく、それらが掴んでいたマンガについてのリアリティ(マンガを論じる者にとって、マンガはいかに問題となっていたのか)を記述する作業を通じて、<現在>のわれわれとマンガとの関わりを間接的ながらも照射することである(1)。<現在>の認識枠組の下で過去のマンガ論を一見きれいな布置のもとに整理するのではなく、マンガはマンガとして自律的に論じられなければならない、というマンガ論の一種の「常識」が成立している<現在>の構造を、過去の言説の内側から記述し照らし出していくこと。本稿の議論を「系譜学」と呼ぶ理由はここにある。
 
2.マンガと<限界芸術>
 −鶴見俊輔と『思想の科学』−
 
 冒頭に引用した夏目房之介の批判の矛先は、“美術評論家”石子順造とともに、“文芸批評家、映画評論家”にも向けられている。石子もまた先行するマンガ論の中に「文学主義」的傾向があることを批判した。容易に想像がつくように、こうした批判は、鶴見俊輔や藤川治水、佐藤忠男ら『思想の科学』の寄稿者たちに向けられている。
 『思想の科学』は1960年代に数回に渡ってマンガを特集しており、またマンガに関する論文の寄稿も多く見られる。そこでの議論を要約して示すのは難しいが、(1)マンガの社会的な存在意義へのまなざし、すなわち「大衆(民衆)文化」としてのマンガ観と(2)能動的な読書主体としてのマンガ読者観、この二点を最大公約数的な共通項として挙げることができる。悪書追放運動の倫理的・道徳的なマンガ論(2)とは一線を画し、自らのマンガ読者としての体験に拠りながら、つまり、マンガを理解できる大人としてマンガの社会性に関する言及を行う態度が、鶴見らのマンガ論には通底している。
 
 藤川治水は、貸本業界で驚異的なヒットを果たした白土三平の「忍者武芸帳」を論じる中で、同作品が「今日の反体制運動エネルギーの結集接点の可能性」を問いただし、「現実の政治への怒りと、社会体制と労働運動への危機意識をもちこもうとする冒険」に向かっていること、さらに「コロリと落ちる手首や太股は安保破産者の精神風景の中でころがり落ちたものであり」、登場人物たちの「放浪は、安保破産者のねぐら定かならぬ現状を物語っている」ことを指摘する。そして、組織の中の人間を描くストーリーや「物質(オブジェ)となってころがる腕や首への冷酷で、ザラついた感じ」がする描写について、紙芝居作家という白土の出自をその要因として挙げる(藤川[1963])。
 佐藤忠男は同じ「忍者武芸帳」を取り上げる論考の中で、中里介山や深沢七郎を彷彿とさせる大河小説的興趣、活字による長々とした「解説」が画と同居する頁構成、善玉/悪玉を単純に分けない、従来の子どもマンガとは異なる登場人物の性格、といった白土作品の特色を紹介しつつ、藤川と同様に紙芝居作家という白土の前歴や、「忍者武芸帳」が貸本として流通している事実に注目する(佐藤[1964])。鶴見俊輔による白土論もまた、藤川や佐藤の議論の延長線上で展開される。そこでは青林堂の長井勝一との関係、学生運動の心性との関係、あるいは特徴的な歴史記述などが「忍者武芸帳」を初めとする白土の“忍者もの”の特色として論じられ、紙芝居作家出身という白土個人の生い立ち、「一枚の絵で動作をストップ・モーションにしておいてその意味を文章で解説する」独特の表現技法も指摘される(鶴見[1973→1991])。
 学生運動、子どもマンガの文脈、紙芝居など、引き合いに出される事例は多岐に渡っているが、「貸本」として流通する同作品が媒体となって成立しているコミュニケーションへの関心は三者に共通している。「読者のみごとなエネルギーの結集」(藤川)、「子どもが親や教師の監視なしにのびのびと自分の幼い思索を思いっきりくりひろげて自己形成している場」(佐藤)、そして、紙芝居の世界を引き継ぎながら形成された「読者−作家共同体」(鶴見)。マンガという、当時の大人にとっては馴染みの薄い−あるいは、悪書追放運動に見られるように反発も強い−表現を論じるにあたって、彼らは作者の「思想」の到達度(マンガでもここまでのことが表現できる!)をことさらに強調したわけではない。確かに映画や紙芝居といった他の視覚文化からの類推による表現技法への言及はあるが、彼らの議論の焦点はあくまで、白土マンガが「いかに描かれ−読まれているのか」、つまりマンガというメディアによって編制される、一種の「共同体」に据えられている。
 マンガ/劇画を介して成立するコミュニケーションの様式がかくも強調される理論的背景に鶴見の“限界芸術論”があると指摘したとしても、それは決して突飛な補助線ではないだろう。専門家がつくり専門家が享受する「純粋芸術」と、専門家がつくって大衆が享受する「大衆芸術」を生み出す基盤=「最小粒子」として、非専門家がつくって非専門家(大衆)が享受する「限界芸術」のあり方を歴史的に捉え返そうとする“限界芸術論”(鶴見[1960→1967:1-70])の視角は、貸本マンガという新たな「大衆芸術」の基層に「えがく→みる」という限界芸術の様式を見出したと言える(3)。「芸術」の概念を単体の解釈−鑑賞されるべき「作品」から拡大敷延し、遊びまで含めた日常の営みを捉え返そうとする視角であればこそ、貸本を媒体として「えがく→みる」というコミュニケーションを成立させているマンガは論じられなければならなかったのである。
 
 白土三平の歴史の底には、そのような[=歴史記述の全体を支えるような]実証的単純命題はない。彼の歴史記述のもっとも小さな粒子である一コマの絵をとって見ても、それは、さまざまの解釈を許す一つの証拠なのである。これは、紙芝居−劇画という表現から自然にあらわれてくる方法上の帰結である(鶴見[1973→1991:196])
 
 翻って、マンガ表現の中の特定の記号がどのような「意味」を持っているのか、という点は鶴見にとって主要な論題とはならない。彼が論じる必要を感じるのは、限界芸術としての「らくがき」が、専門家=マンガ家によって「マンガ/劇画」と名づけられ、大衆芸術として「えがく→みる」コミュニケーションを成立させていること、つまり芸術の「様式」であって、そのコミュニケーションによって交換される「意味」ではない。「もともと、漫画の作品の底に、あたえられたものとして、万人にとっての一つの意味があるという考え方は、なりたたない。漫画は、作者と読者のあいだに、同時代の状況の制約をうけつつ、さまざまの読み方を許すひらかれた作品として、おかれている」(鶴見[1973→1991:112])という見解から分かるように、時代・社会によって多様な「解釈」を可能とする自在性こそが、マンガの特殊性として捉えられているのである。
 補足して述べておけば、そもそもが「芸術の発展」という本題を持つ“限界芸術論”の視角は、「何が語られ(描かれ)ているのか」という意味論的な問いからは出発していない。柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治を事例として取り上げた“限界芸術論”の照準は、あくまでコミュニケーションとしての芸術の「様式」に据えられていた。鶴見にとって、マンガは作者の「思想」のプロパガンダの手段でもなければ、読者(民衆)の「思想」を適宜すくい取るような鏡像でもないのである。
 
 様式としての漫画は、現実の対象をそのままうつすのでなく、その対象のここに眼をむけて笑わせたいと思う部分を誇張して描くことをとおして、日常生活の中でならされた仕方で物事を見る精神に、衝撃を与える。それが、読者の精神にとって、さまざまの屈伸体操の機会を与える。その屈伸体操が、その人にとってたのしいものか、いくらかいやなものかは、作者と読者の相互の位相にかかる。(鶴見[1973→1991:108])
 
 「作者と読者の相互の位相」。繰り返し強調しておくが、鶴見らがマンガを素材として見出した問題は、そこでどのような「意味」がやりとりされているのか、ひいてはその「意味」が読者にどのような反応・影響(楽しむ、忌み嫌う・・・)を与えるのか、といった意味論的、あるいは効果論的な次元のものではない。限界芸術としての「らくがき」が、ひとつの大衆芸術産業へと「発展」し、かつての紙芝居による「読者−作家共同体」を新たに再編制している状況こそ、限界芸術概念に基づくマンガ論が第一に論じるべき対象だったのである。
 
3.劇画の読書空間
 −石子順造と『漫画主義』−
 
 第1節で触れた石子順造は、1960年代後半からマンガ、わけても劇画について積極的な議論を展開した。1967年には批評誌『漫画主義』を創刊し、権藤晋、梶井純、菊地浅次郎らも『思想の科学』グループとの違いを強調しつつマンガ論を展開していった。彼らの議論も一括することは難しいが、(1)読書・流通過程(2)読者(3)表現技法への照準には共通項が見出せる。
 彼らが一貫して注目した「劇画」とは、1957年末に辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」にその名称が冠せられて以降、関西を中心とする貸本誌を媒体として発表されたマンガの新ジャンルである。佐藤まさあき、さいとうたかを、桜井昌一らは1959年に「劇画工房」を結成し、「マンガにまつわりついていた既成観念、“笑い”という不可欠の条件をも無視」(桜井[1985:87])した、リアルな画風とストーリーの確立を目指していく(4)。貸本店という空間を介して生産−消費される劇画に、石子らはどのようなリアリティを抱いていたのだろうか。
 
 劇画の読書・流通過程を論じるにあたり、石子は「マンガ表現の場の側面を大いに重視」(石子[1975→1994:9])することを宣言し、貸本店と劇画との密接な関連に焦点を当てる。「そもそもは、裸電球と土間に象徴される貸本店の書棚をびっしりうずめていた貸本マンガとして、劇画は劇画なのであった。そして、であることによってこそ、劇画はまた、すぐれて戦後日本のマンガであった」(石子[:81])。「劇画の発展の一助は貸本店にあるといってもいい」(5)と劇画家当人たちに言わしめた、表現の生産者と消費者とが交錯する場としての貸本店は、劇画を論じる者にとって看過し得ない特殊な空間性を帯びていたのである。具体的には、「うすよごれた手垢の感触と、あの貸出票の(ママ)記入された数字にこそ、貸本というメディアの特性としてのアクチュアリティが、なによりも如実に示されてあった」(石子[1970:254])からこそ、生活者のリアリティとしての劇画の読書体験は、貸本という媒体と貸本店という空間に照準を据えて論じられなければならなかったのである。
 その「表現の場」に集う人々の社会階層もまた、劇画の特殊性の一面として捉えられた。権藤晋は、学生運動とも高度経済成長とも無縁の生活を送る「非学生ハイティーン」読者の存在に劇画の特殊性を見出す。権藤にとって劇画は、こうした読者の存在ゆえに、安保闘争という表舞台の大衆の心性を否定する表現、つまり「非活字文化であるどころか、非文化」であり、「戦後の落し子」であると同時に「孤立」した表現として論じられるべき対象となる。「諦観を抱くには若く、絶望を語るには口を持たず、怒るにはその手を持たない、孤立した無数の人々が、ありとあらゆる楽観的な幻想が消え消えては現わ(ママ)れる環境のなかで、劇画に接近し、奈落へ奈落へと足どりをとった」事態は、従来の子供向け雑誌とは異なる特殊な表現受容の形態として捉えられる(権藤[1969])。
 表現の場と読者層に注目するマンガ/劇画論は、さらに表現そのものの検討を強く意識して展開されることになる。第1節で引用したように、石子はマンガの特殊な、あるいは自律的な表現としてのありかたにも意識的であった。「マンガがメディアとしても、メッセージとしてもマンガでありうるのは、マンガに独自な表現の論理と可能性がありうるからである」(石子[1970:50-51])と考えるからこそ、「絵画主義/文学主義」は批判されなければならなかった。「描くという行為を展開軸とする絵画の思想性とは、・・・それを行為によって、独自に形象化し、対象化する手続きの中にひそむ、情念をはらんだ存在感そのものの運動性として」あるのであり、「何を、どう描いたか、ということが、描き方とともに、描くこととして包括的に捉えかえされねばならず、その地平でしか作業の思想性は問題にならない」。悪書追放運動が糾弾した「残酷」描写に関しても、残酷だと見なされる表現のあり方を、作者の生活感とマンガ技法との相克として問うべきであると提言する。例えば「忍者武芸帳」を論じるならば、「残酷」という恣意的な解釈を可能にするコマ割りや構図、そして誇張と省略を特徴とするマンガ表現としては極めて写実主義的な描法にこそ注目すべきだというわけである。(石子[1969])。
 作家・読者の生活者としてのアクチュアリティが描き込まれ、読みとられる様相に注目すること。石子らのマンガ論には、「文学主義か否か」といった観点に拠っては区別しきれない、鶴見俊輔らによるマンガ論との結節点がある。石子は、マンガの表現記号が特定の「意味」を発現する起因を、生活者としてのマンガ家および読者大衆のアクチュアリティに委ねている。「単なる消費的娯楽である以上に、広く大衆の欲望を未知に向かって開いていく、突破口のひとつとして能動的に機能しうる」(石子[1967:21])メディアとしてマンガを捉えるからこそ、特に「貸本」時代の劇画を、劇画家をも含めた大衆のナマの生活感が凝縮された表現として、そしてその読書もまた生活者としてのリアリティを刹那的ながらも確認していく作業として捉える必要があるのだ。この視角は、単なる「意味」のやりとりを越えた、作者と読者との身体的なレベルまで含み込んだコミュニケーションとしてマンガ/劇画を捉えている点で、鶴見らのマンガ論と同一平面上にある(6)
 梶原一騎原作の「愛と誠」を「かもめのジョナサン」(五木寛之が日本語に翻訳)と比較しつつ論じるにあたっても、石子が「危機」を認めるのは作家や作品あるいは読者の精神に内在する「思想」などではなく、その「思想」を論者(石子)が危惧しうるほどに確実に成立してしまっている、作者と読者との相補的な「えがく→みる」の関係である。
 
 梶原一騎やリチャード・バックの思想が右翼的で危険だなどというのではなく、「愛と誠」や『かもめのジョナサン』に人気が集まる、その情況に、五木ではないが、「或る怖ろしい予感がよこたわっている」、ということである。(石子[1974:60])
 
 同様の視角は菊地浅次郎にも共有されている。作者の嗜虐趣味と読者の被虐趣味とが混成しつつ編制される読書空間にこそ「危機」を見出す菊地にとっても(菊地[1975])、問われるべきなのは作者の「意図・思想」や読者の「解釈」の偏向性ではない。権藤晋による鶴見や藤川、佐藤らに対する批判も、だから、「コミュニケーションとしてのマンガ」という観点については鶴見らと問いの平面を異にしてはいないのだ。
 確かに権藤は「白土伝説をいたずらに仮構する悪質な楽天的進歩派知識人」による「政治至上主義」的な論考として、鶴見らの白土三平論を徹底的に糾弾する。いわく、白土の劇画は安保闘争とは無縁の「一七、八歳を中心とする未組織労働者であって、彼らは、“民主主義を守る闘い”が唱和され、“連帯”が叫ばれているとき、それらに付和随行することなく、ひたすらに貸本屋へと向った」のであり、決して「文化」としての劇画を享受していたのではない(権藤[1970])、と。だが、この権藤の批判は、貸本を媒体として成立するコミュニケーションの様式をひとつの文化/芸術として「評価」することに向けられているだけであり、様式そのものの認定まで否定し去ってはいない。先に見た部分で使われていた「怨念」「奈落」といった用語のおどろおどろしさも、貸本に媒介されたコミュニケーションの特殊性への確信をかえって明確に示してすらいる。
 さらに、映画やテレビといったマンガに近接しているように思われる視覚メディアとの比較を通じてマンガ表現の特殊性を論じる中で、石子が表現技法(描線、コマ割り、吹き出しなど)の固有の論理を指摘しつつも、特定の表現がある特定の「意味」を有していることまでは断言していないことにも注目すべきだろう。「受け手は、自分の知覚・認識のありよう、その運動力によってマンガを受けとる」ほかなく、対して「作家は受け手の側の「わかる」予知や予感に縛られて、かえって自在に想像力の羽根を伸ばすことは躊躇」せざるを得なくなることもある。「ぼくにとっては、ぼくの独断=論理化が僕の表現だというしかなく、そのような僕と水木[しげる]マンガとのかかわりに、時代を逆写しにするしかない」と述べる石子は、「(精神の)屈伸体操」の契機としてマンガを捉えた鶴見と同様、マンガの記号表現が持つ「意味」の解釈については最終的には放棄しているのだ(石子[1970:50-91])。
 
 マンガ/劇画を描き、読む行為。『思想の科学』の寄稿者にとっても、『漫画主義』同人にとっても、まさにその行為のアクチュアリティこそが問題となっていた。鶴見と石子との間の差異を敢えて強調するのならば、「手垢のシミに、そして貸出票にふいに知覚されるインヴィジブルな疎通こそ、貸本の読者としてその孤立感を、どこかのだれかと「密通」させていた通底坑(ママ)ではなかったか」(石子[:256])といった箇所に見られるように、コミュニケーションを成立させるマンガの物質的なあり方に石子がより一層意識的であったことは指摘できよう。だが、テクストとしてのマンガ表現と読みの実践とが分かち難く結びついているという前提に関して、両者は決して「対立」してはいなかったのである。
 また、議論を先取りして指摘しておけば、鶴見と石子との上述した相違点からは、次節で論じる村上知彦ら1970年代後半以降のマンガ論者と石子との結節点も見出すことができる。「読者−作家共同体」の編制に、そしてそこでのコミュニケーションにおけるマンガの「限界芸術」性に注目する『思想の科学』寄稿者たちと比べて、石子の議論は読者がマンガに対して抱くリアリティへの重心も高い。換言すれば、石子は、マンガが手触りのあるモノとして存在することによって生まれる読者の個人的なリアリティに敏感であり、しかも「孤立」した読者がマンガに媒介されて一種の共同体へと編制されることにも目配りをしていた。次節で見る<わたし>語りによるマンガ論の地平は、この石子の両極性を見据えた上でこそ初めて捉えることができるのである。
 
4.<わたし>が語るマンガ
 −「マンガをマンガとして語る」ことの自明化−
 
 ここでもう一度、『思想の科学』グループと『漫画主義』同人たちを並置してみよう。彼らが「対立」しているのは、上述したようにマンガを描き−読む実践、つまりコミュニケーションの様式に関する「評価」の次元である。言い換えれば、その様式が社会的・歴史的な制約を受け、さまざまな形態となって現れることについて、両者は問いの平面を共有している。彼らにとってマンガとは何よりもまず、描かれ−読まれる円環的なコミュニケーション行為の媒介項として捉えられていたのだ。「何が」描かれ−読まれているのかではなく、「いかに」描かれ−読まれているのかという問い。この問いが<現在>のわれわれに見えにくくなっている(ときには「反映論」としてしか見えなくなってしまう)のは、一体どうしてなのか。
 
 その疑問に答えるために、まずは村上知彦のマンガ論を見ておきたい。村上は第1節で引用した批判に続けて、マンガと自分との関わりを次のように述べ、鶴見俊輔や石子順造らとの違いを強調している。
 
 ぼくらにとっては、・・・まんがはまんがとしてそのまま社会であり歴史であり、あるいは社会や歴史や思想すらがぼくらのまえにはまんがとしてしか存在せず、そのなかで、自身がそれにどうかかわるかについて思いめぐらすしかなかったのだ(村上[1979:78])
 
 彼は先行世代によるマンガ論に対して、「なぜ、まんがをほんとうに読んでいる当の本人である、ぼくたちのためのまんが評論が存在しなかったのか」([:74])と不満を表明する。そして、「ぼくたちのためのまんが評論」とは、「ひとにぎりの人々が、勿体ぶって語る」ようなものではなく、まるで「喫茶店のおしゃべり」のように、自ら抱いた感想を赤裸々に語ることなのだと結論する([:81])。1970年代末の同時期は、村上と同世代の、マンガが「分かる」若者たちがマンガ論を数多く提出したことで一時代を画している。少女マンガ、三流エロ劇画、同人誌・・・といった戦後マンガ史の新たな流れを補完あるいは先導するように、この時期には熱心な読者としての<わたし>とマンガとの関わりを強調する言説が多く提出された(7)。彼らがマンガに対して抱いていたリアリティは、では鶴見や石子とは別次元のものだったのか、それとも同じ平面上の異なる地点にあっただけなのか。
 中島梓による、先行世代のマンガ論への批判を考察の次なる糸口としよう。中島は『思想の科学』1978年9月号の特集「生きのこった青年文化・漫画」に寄せられたマンガ論に対して、マンガを内在的に読むことのできない「おとな」が他の表現との比較の上でしかマンガを論じられないことの差別性を批判した。そして、マンガがジャンルとしての自意識を持つこと、つまりマンガを活字の代替物などとしてではなく、「ひとつのれっきとした表現メディア」として捉える必要性を説く。そのためには読者は「マンガをよめばいい」。なぜなら「マンガは、つまるところ、論じたり、語ったりするよりは、ただひたすら感受することにこそ最もふさわしいメディアである」からだ(中島[1978])。マンガを読み続け、マンガを理解=「感受」できる者によってのみマンガは語られるべきだとする、マンガ論の資格がここで要求される。村上知彦も中島の提案に同意を示しつつ、「[「マンガに何が可能か」という]自意識を持ったメディアとしてのまんがの内部に、ぼくらはとどまりつづけるのだという意志表示」に議論の前提を据える(村上[1979:80])。
 彼らにとってマンガとは、小説や映画といった他の表現との比較の上で語られてしまった途端に陳腐になってしまう、<わたし>にとってかけがえのない何物かである。手塚治虫の「映画的手法」だとか、白土三平の「紙芝居的手法」といった言及そのものが、「マンガをマンガとして」語ることを不可能にしてしまう。代わりに彼らが議論の前提とするのは、自らのマンガ体験とマンガ表現との、疑われることのない共振関係である。「おとな」が理解できないマンガ、例えば1970年代における「少女マンガ」が彼らの重要な論究対象となったことは、「わたしとマンガ」という視角のひとつの実践例である。彼らが愛読する萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子らの少女マンガには、戦後二十年間で構築されたマンガ表現そのものの変革を見出すことができ(大塚[1996])、その変革を社会の構造変化や大衆の心性と関連づける必要もないほど参照すべき先行表現の蓄積もあった。少女マンガが精錬していった様々なテーマの表象化の技法こそ、彼らにとっては語られなければならない対象だったのだ。
 マンガの特殊性を「感受」することのできる読者としての<わたし>は、先行世代のマンガ論を批判する際の重要な拠点となる。<わたし>以外の読者がどのように解釈しようと、<わたし>がマンガを読むことは誰にも否定できないし、マンガを読むことで抱いた感想を述べることに躊躇する必要などない。だからこそ彼らは、過剰なまでに自らの言葉で、マンガを語る。
 しかしここで、<わたし>のみがマンガ表現の特殊性を証明しうるとする彼らの論理の恣意性を非難することは本稿の課題ではない。先に確認したように、鶴見や石子らと距離を置こうとした彼らのマンガ論が、では果たして先行するマンガ論とは問いの平面を異にしていたのかどうか、が考察されなければならない。というのも、論者自身の「解釈」の恣意性については鶴見も石子も前述したように認めている。そのことを認めた上で言及可能なのはマンガというメディアによって可能となるコミュニケーションの様式だとする鶴見や石子と、「ぼくはひたすらぼく自身がまんがに置いてきぼりをくわされないために、まんが−内−存在としての自己実現をなんとしてもなし遂げるために、まんがを語り続ける」(村上[1979:81])と宣言する村上とは、マンガが読者個人ごとに別々の「意味」を喚起させる、という表現の効果に関する認識を共有している。両者が異なるとすれば、その前提からどのような結論を用意するか、つまりマンガを「大衆芸術」や「キッチュ」の新たな様式として語るか、「ぼくら」の表現とするかだけである。
 この違いはどこから来るのか。その出所は、村上が<戦後マンガ史>=マンガ作品(表現)とマンガ論とが編制する言説空間の内部で(、、、)語っている、という点に認められよう。マンガと論者としての自己との間に、言及されるべき特殊なコミュニケーションが存在していることを村上は自明視している、と言ってもよい。「まんが−内−存在」とは象徴的な謂である。村上にとって、描く−読むというコミュニケーションの様式は、もはや対象化されて論じられるものではない。そんな観察者的な視点からではなく、自らのマンガとの関係を<わたし>の視点から赤裸々に語ることこそが、メディアとしてのマンガの特殊性を証明することになるのだ。
 「まんがは、それを描くレベルだけでなく、読むレベルにおいてさえ、ぼくらの操作によるかかわりを内に含んだ、とことんマイナーなメディアである」(村上[1979:260])。マンガが構成するコミュニケーションの様式についての認識は、村上と鶴見・石子との間に違いはない。しかし、「ぼくらの操作」の方に重心が置かれることで、彼の<わたし>語りは先行世代のマンガ論を切り捨てることができる。<わたし>の言葉を使わないでマンガを語ることは、まるでマンガが別のもの(他の視覚文化や大衆の心性、社会情勢など)によって説明されてしまうことであって、それは「反映論」にすぎない。<わたし>が「感受」し「操作」するのだから、そんな別物でマンガを説明する必要などないのだ。
 ここにあるのは、マンガと読者との関係についての奇妙な安心感である。同様の安心感は、米沢嘉博の次のような見解にも共有されている。
 
 マンガは「私」と「私」、つまり描き手と読み手が出会う場であるばかりでなく、重なる場でもある。そして重なるために、僕らは、いや、僕は瞬時に、そこで描かれているものを「すべて」なぞっていることに気がつくのだ。マンガを読むこととは、マンガを描くことの追体験であることがそこから出てくる。
 読むことの快楽とは、すなわち描くことの熱狂でもある。(米沢[1987:179])
 
 繰り返して指摘しておきたい。ここではマンガが「快楽」を引き出すことや、マンガを描くことと読むこととが円環的なコミュニケーションであることはもはや自明視されている。鶴見や石子が、自身の読者体験を基にしながらも記述対象に「彼ら(子ども、非学生ハイティーン・・・)」を選択したのに対して、米沢も村上も中島も<わたし>とマンガとの関係を語ることこそが、そのコミュニケーションの成立状況を語ることにもなる、とする。鶴見や石子と村上・米沢らとの間には、「反映論」対「表現論」といった分析手法レベルでの差異(断絶)があるのではなく、マンガに対して抱くリアリティへの屈折した連続性があるのだ。
 ここで、直線的なつながりとしてではなく「屈折」として捉えるにあたって、前節の最後に指摘した、石子のマンガ論の両極性を想起しておきたい。石子が執拗にこだわった、貸本の手垢にまみれた貸出票のリアリティは、村上らが拠っている<わたし>の確かさと同一平面上にある。どちらも、マンガが媒体となって成立するコミュニケーションの作動主として、読者個人の身体が想定されているからだ。しかし石子は、読者の個人的(かつ身体的)なリアリティと同時に(、、、)、「読者−作者共同体」の(たとえ仮想的なものであっても)編制を捉えようとしていた。そしてマンガ/劇画に媒介されたコミュニケーションの様式の内実を捉えようとすれば、<戦後マンガ史>という言説空間をぎりぎりのところで対象化する試みが要請される。「いかに」の記述はまさにその実践であった。一方、村上らはその言説空間の内部存在であることに、奇妙な安心感を抱いてしまう。解釈の恣意性について、<わたし>という理想的な読者を先取りして想定する村上は、作者の「意図」なり作品の「思想」なりが読めてしまうこと、ひいてはマンガが映画や紙芝居ではなく、まさにマンガとして(、、、、、、)存在することについて自省する場所から離れてしまうのである。
 開き直りにも似た「マンガ−内−存在」への安住。「マンガをマンガとして」語る<わたし>は、サンプルは一人ながらも、「いかに」の問いに答えているように見える。しかし<わたし>が描き−読む、あるいは「感受」することがないのならば、マンガはその表現としての定義を与えられない、ということにもなってしまう。四方田犬彦や夏目房之介の「表現論」が有効に見える地平とは、この、マンガが表現としての同一性を確保してしまっている(ように見える)地平なのである。
 
5.マンガ論の<現在>
 
 「いかにマンガは描かれ−読まれているのか」という問いの棚上げ、あるいは「マンガがマンガとして」存在していることの自明視。その結果のひとつの典型例として、1996年に刊行された『マンガ地獄変』(水声社)が挙げられる。正統的な<戦後マンガ史>からは除外されてきた“ダーク”なマンガへのオマージュで埋め尽くされる同書では、<わたし>がいかにマンガを面白く語るのか、という一種のゲームが過剰なまでに濃密に展開されている。<マンガ>なる表現が編制する共同体の内実も、そこでのコミュニケーションの様式も、<わたし>がいる限り問われる必要はない。パロディにせよ「謎本」にせよ、<わたし>が語る主体である限り、マンガは他の何物でもなくマンガなのだ。こうして<わたし>語りは増殖し、<現在>のマンガ論の主要な語りの形態となっている(8)
 しかし、ここで<わたし>語りのこうした肥大化を嘆いたりすることはやはり(くどいようだが)本稿の課題ではない。<わたし>を拠り所としたマンガ論がドミナントなものとして存在している一方で、四方田犬彦と夏目房之介による「表現論」が(しかも、「有効」な方法論として)存在している<現在>の構造こそ、本稿のまとめとしての本節で記述されるべき対象である。
 
 四方田と夏目の「表現論」が<戦後マンガ論史>において突出しているように見えてしまうのはなぜなのか。彼らが実践しているのは、マンガの表現技法あるいはマンガの「文法」が有する「意味」を提示すること、である。それを、<マンガ>なる表現が構成される記号空間への言及、と言い換えることもできよう。マンガを「感受」することのできる<わたし>を方法論的にできる限り後景に遠ざけ、マンガ表現の形式的な意味伝達の可能性について考察すること、それが「表現論」の射程である。
 
 漫画における物語の語られ方を考えるときもっとも心掛けるべきこととは、漫画に先立って、別個に自律した物語なるものが存在し、それが一定の手続きを経て、手際よく「漫画化」を施されるわけではない、ということだ。漫画には漫画に独自の説話行為のあり方が存在しているという、厳然たる事実といってもよい。(四方田[1995:29])
 
 四方田は(1)二度と同じ顔が描かれることはない(2)同一の顔を際限なく描き続けることができる、この二点を「漫画においてしか成立しえない二つの法則」として挙げる(四方田[:142])。かつての論題であった、マンガによって成立する「共同体」の特質、あるいはその「共同体」の内部でマンガを「感受」する個人ではなく、その「共同体」がいかなる記号の「法則」に基づいて成立しているのか、という部分へと議論の焦点は移行している。この視角は、鶴見から石子・村上へという、「屈折」しながらも共通の地平で展開されてきたマンガ論の延長線上に見出すことはできない。四方田の議論はむしろ、<わたし>語りが一般化したマンガ論の地平を鳥瞰する「メタ・マンガ論」と呼んだ方がいいだろう。
 夏目房之介の「表現論」もまた、マンガの記号表現の構成に議論の焦点を絞る。例えば白土三平を論じるにあたって、夏目は当時の時代背景や読者層、貸本というメディア形態についての言及をできる限り避け、描線やコマ割りから『忍者武芸帳』の「劇画」的リアリズムを考察していく。手塚治虫によって展開されたマンガの記号表現とは異なる、ある「思想」が白土作品を特徴づけているという点については、鶴見俊輔や石子順造も既にしてきしたことではある。ではあるが、手塚(的なるものも含めて)と対照比較するといっても、夏目の「表現論」が考察するのは「マンガ表現としての」白土作品のリアリズムであり、戦後マンガ史における革新性なのである。登場人物の手や目の描線、動物の非・擬人的描写、人間の動作の合理的な描写、群集描写における個々の人間の扱い、人間の肉体描写のエロティシズム、風景・背景の描写と解説の配置具合・・・(夏目[1995:117-144])。映画という、やはり活字とは異なる視覚文化についての研究に造詣の深い四方田は、マンガの「テクスト」性についてメタレベルの議論をするが、夏目の「表現論」は、自らペンを動かしコマを切っていく「模写」がそのきっかけであったこともあり、マンガの物質的なあり方についてのメタ批評を通じて、マンガの記号空間の解析に向かう。
 もちろん四方田と夏目の「表現論」は、厳密に言えば同じではない。しかしここで重要なのは両者の差異ではなく、二人が共にマンガ表現の自律的な構造を解明すべき対象として選んでいること、そして、この二人の視角が<現在>最も的確に「マンガとはいかにしてマンガなのか」という問いに答えている(ように見える)ことである。
 その的確さは、まさしく<わたし>語りが可能となっている<現在>のマンガ論の言説構造の効果である。「表現論」は、それ自身で「優れている(マンガの本質を捉えている)」と言えるわけではない。マンガを媒介項としたコミュニケーションの様式が自明視されており、<わたし>をまず立ててマンガを語るというドミナントな語りの形式そのものを対象化する視角だからこそ、「表現論」は<現在>のマンガ論として突出しているのである。こう言い換えてもいい。マンガをマンガとして成立せしめる各種の記号=約束事や、テクストが有している自律的構造を、まるで事典に収めるかのごとく例示していく(その集大成が夏目も編者として参加している『別冊宝島EX マンガの読み方』1996年、宝島社、である)ことができるのは、マンガが「いかに」描かれ−読まれているのかということの「無視」ではなく「自明視」が−それは論者個人というよりも、まさしく言説空間としての<戦後マンガ史>が可能にする−その論理を支えるからである。
 
 マンガをマンガとして成立せしめる要件をテクストに内在するものとして議論を始める「表現論」は、だから「反映論」を乗り越えたわけではない。むしろ、「乗り越えた」という言い方をしてしまった時点で、<現在>のわれわれはマンガのメディア特性の一部を自明視してしまっているのだ。マンガはモノ(表現技法の集積体)としてあることによって、同時に、ある特殊なコミュニケーション様式をも成立させる。そのコミュニケーションを社会状況や読者大衆の心性との関連で語ることを「反映論」として断じてしまう論理は、逆に「マンガはマンガとして」読まれることができる、という前提に立っているのである。
 そして最後にもう一度、「マンガの「思想」を描線やコマのなかに、その生理みたいな場所にみたい」という夏目の「表現論」のテーゼに立ち戻ろう。夏目はさまざまなマンガの表現記号の「思想」を分析していく。かつては(意識的であろうと、無意識的であろうと)回避されていた、作者の「意図」や読者の「解釈」への言及が、ここではいささかも躊躇されていない。そして、われわれはそれに対して「マンガをマンガとして」語る正当な手法としての価値を与えてもいる。だが、「模写」という、マンガを<描く>ことの実感に依拠しつつマンガを<読む>経験に言及する夏目の「表現論」は、実は鶴見や石子が執拗にこだわった円環的な描く−読むのコミュニケーション様式のハイパー・リアルな実践でもあるのだ。ただし、それは決して無意識的な「先祖帰り」などではない。むしろ、<マンガ>なる表現が可能にするメタ・マンガの試みとして、夏目の「表現論」は実践されているのである。
 
 マンガ論の<歴史>書くことは難しい。しかしその難しさは、正しく理想的なマンガ論の手法を探り当てることが難しいから、では全くない。われわれが常に−既に<現在>の言説構造の内側に立ってしまっているという事実がそうさせているのだ。そしてこの事実に気付くためには、ある種の想像力を必要とする。しかしその想像力によらなければ、<現在>のマンガ論がわれわれに及ぼしている効果に自覚的にはなれないだろう。そして、「反映論」対「表現論」という、今なお繰り返される論争を「乗り越える」ためには、まずこの想像力を培うことから始めなければならないのである(9)
 
 
文献
 
伴俊男+手塚プロダクション 1994『手塚治虫物語 オサムシ登場 1928-1959』 朝日文庫
藤川治水 1963「忍者残酷物語−忍者武芸帳論−」『思想の科学』1963年7月号pp.58〜63
権藤晋 1969「劇画 戦後民主主義の奈落」石子順造・梶井純・菊池浅次郎・権藤晋『現代漫画論集』 青林堂 pp.237〜247
−−− 1970「マンガ文化の風化と奈落」『現代の眼』1970年2月号pp.138〜145
菊地浅次郎 1975「梶原一騎と上村一夫−その暴力とエロスの本体−」『現代の眼』1975年2月号 pp.152〜159
呉智英 1990『現代マンガの全体像[増補版]』 史輝出版
石子順造 1967『マンガ芸術論−現代日本人のセンスとユーモアの功罪−』 富士書院
−−−− 1969「疑似近代を告発しえたか 白土三平論」前掲『現代漫画論集』pp.33〜44
−−−− 1970『現代マンガの思想』 太平出版社
−−−− 1974「危機としてのキッチュ−『愛と誠』考」『現代の眼』1974年9月号 pp.52〜61
−−−− 1975→1994『戦後マンガ史ノート』 紀伊國屋書店(復刻)
村上知彦 1979『黄昏通信(トワイライト・タイムス) 同時代のマンガのために』 ブロンズ社
中島梓 1978「おとなはマンガを読まないで」『中央公論』1978年11月号pp248〜257
夏目房之介 1995『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』 筑摩書房
大塚英志  1996「少女まんがの消費社会史−「24年組」の発生と終焉−」『岩波講座現代社会学第21巻 デザイン・モード・ファッション』 岩波書店 pp177〜192
桜井昌一 1985『ぼくは劇画の仕掛人だった【上巻】劇画風雲録』 東考社
佐藤忠男 1964「白土三平の漫画発想 忍者−社会矛盾の裁断者」『朝日ジャーナル』1964/2/16号 pp.88〜91
竹内オサム 1987「マンガ批評の現在−新しき科学主義への綱わたり」米沢嘉博編『マンガ批評宣言』 亜紀書房 pp.67〜83
鶴見俊輔 1960→1967「芸術の発展」『限界芸術論』 勁草書房、pp.1〜70(初稿は『講座・現代芸術』第一巻「芸術とは何か」勁草書房に所収)
−−−− 1973→1991『漫画の戦後思想』 文藝春秋(ただし引用は『鶴見俊輔集7 漫画の読者として』筑摩書房pp.89〜276)
瓜生吉則 1996「<劇画>ジャンルの成立と変容−メディア論的視座による<少年もの>ジャンルの事例研究−」『東京大学社会情報研究所紀要』第52号 pp89〜107
−−−− 1997「<メディア>としての梶原一騎 あるいは“劇画の帝王”の語り方」 『ポップ・カルチャー・クリティーク@宮崎駿の着地点を探る』 青弓社 pp.103〜115
四方田犬彦 1994『漫画原論』 筑摩書房
米沢嘉博 1987「マンガの快楽−風景・線・女体・グロテスク」前掲『マンガ批評宣言』pp.178〜179
吉見俊哉 1990「コミュニケーションとしての大衆文化」『新聞学評論』39号 pp.78〜105

(1)蛇足ながら付言しておく。過去のマンガ論の実証的な追跡作業そのものが無駄なわけではない。ただ、マンガ表現そのものであれ、その表現をメタレベルからとらえる批評・研究という営為であれ、その<歴史>を書くときにイマ・ココからの安易な発展史観を採ることは、本稿が(明示することは難しくとも)目指している<現在>の記述の方法としてはふさわしくない、ということである。そして、本稿で取り上げるマンガ論の選択の「恣意性」は、その目的に沿っている限りにおいてのみ認められる。
(2)本稿では、この「悪書追放運動」の言説は<マンガ論>としては取り上げない。というのも、「有害コミック」排斥運動として現在に至るまで連綿と続いているこの運動の言説は、本稿で論題としている「テクスト/表現としてのマンガ」への言及を方便としてのみ用いており、その主張の要諦は“有害なマンガを(免疫力の低い)子どもに読ませるべきか否か”といった、道徳・倫理に関わるものだからである。倫理的な<歴史>の裁断を回避する本稿にとっては、そうした言説は資料としては副次的なものにすぎない。
(3)ただしこの論文の中では、「えがく→みる」の芸術様式を持つ「大衆芸術」として挙がっているのは紙芝居、ポスター、錦絵だけで、マンガは入っていない。
(4)この後、1960年代後半になって「貸本」から全国誌へと発表媒体が移行することで起きた<劇画>ジャンルの内実の変容については瓜生[1996]を参照。
(5)「劇画工房」発足の知らせの一節だが、ここでは伴俊男+手塚プロダクション[1994:474]から再引用した。
(6)大衆文化論の文脈の中で鶴見の限界芸術論と石子の「キッチュ」論との接点を指摘したものとして、吉見[1990]を参照。
(7)本節では具体的に取り上げていないが、亀和田武、飯田耕一郎、高取英ら、1970年代後半に雑誌編集に携わりながらマンガ論を積極的に展開した人々については、宮本大人氏から大いに示唆を受けた。ここに記して謝意を表したい。
(8)対象は梶原一騎に限定されてはいるが、『マンガ地獄変』における<わたし>語りの形態に言及した論考として、瓜生[1997]を参照。
(9)本稿での記述が四方田・夏目の二人を<戦後マンガ論史>のなかに配置できていないのではないか、との批判が提出されることを想定して、若干の補足説明をしておきたい。注(1)でも述べているが、本稿では繰り返し、「理想的」なマンガ論の模索・提示が議論の着地点ではないことを強調してきた。過去を振り返ることのできるイマ・ココの地点に独善的に立ってしまったとき、鶴見や石子のマンガ論が単純な「反映論」にしか見えなくなるであろうから、というのがその理由であった。しかし、この理由は、マンガ論の<歴史>を書くことは最終的に不可能である、と(「記述者(観察者)の政治性」などというナイーヴな言い訳を伴いながらの)結論を下すためではない。そうではなく、マンガ論の、そして何よりも<マンガ>という、戦後日本社会の出版産業において圧倒的な物量を誇るメディアの<歴史>を書くためにこそ、本稿で展開した「系譜学」はその理論的考察として必要(強く言えば不可欠)だったのである。そして、私見ながら、この系譜学的視角は、<メディア>の存立そのものを不問に付してしまいがちな“メディア研究”を「乗り越える」実践としての「メディア論」を可能にするのである。