※原文の傍点は太字に変更

<劇画>ジャンルの成立と変容
―メディア論的視座による<少年もの>ジャンルの事例研究―
 
瓜生 吉則
 
1.<劇画>ジャンルの成立と変容を語るということ:本稿の問題意識と方法
 
 1973年秋、『サンデー毎日』は「怨念?退廃?風俗?文化? 『くたばれ劇画』派の論理 不潔!陰惨!くだらない! 本当にそうか!?」と題された特別企画を組み、以後五週にわたって「劇画」を特集した。会田雄次による劇画批判と各界著名人への劇画イメージのアンケート(10/14号)に始まり、大島渚による会田批判(10/21号)、「漫画家」による劇画観(10/28号)、「劇画家」による反論(11/4号)、五大新聞の学芸部長による劇画不掲載の理由(11/11号)と続いたこの「劇画論争」では、表現ジャンルとしての劇画の認知の是非がまるで「社会問題」であるかのように扱われている。その五年後、78年秋からは『月刊総評』誌上で津村喬と稲葉三千男がマンガ/劇画をめぐる似たような論争を繰り広げた(呉[1990:56-60])。しかしそれと全く同じ時期、『中央公論』1978年11月号の特集「劇画を認知すべきか」の中で、山本[1978]は「劇画が話題にならなくなって久しい」という言葉から議論を始めている。実際、この津村・稲葉論争と『中央公論』の特集の後、劇画は「社会現象」としてはマスコミに登場しなくなる。劇画を扱ったとしてもそれはマンガの一ジャンルとしてのレポートがほとんどであり、皮肉ながらも劇画は社会的な「認知」を受けることになったのだ。
 こうした「社会現象」化以前から、『漫画主義』同人たちによる論考(例えば石子・梶井・菊池・権藤[1969])を初めとした劇画論は少なからず出されていた。それらは劇画を戦後マンガ史に位置づけるべく、その作家や作品の特徴を論じている。また戦後マンガ史を総括的に論じる文献においても、「劇画」は重要な一項を占めている(石子[1975=1994]、竹内[1995]など)。その点ではマンガを論じる人々の間にも、劇画をマンガの一ジャンルとして「認知」する作法が共有されていると言ってよいだろう。
 これら数ある先行研究を前にして、しかも「社会現象」としても沈静化した劇画を「<劇画>ジャンルの成立と変容」なる題目の下であえて本稿が論じる積極的な理由は何か。それは表現媒体に注目しながら劇画ジャンルの歴史を捉え返すことにある。
 「マンガは、あるメッセージとしてマンガであるばかりではなく、メディアとしてもマンガである」(石子[:80]。石子は表現が表現として成立する場に徹底的にこだわった。「メディアの機能や性格と不可分な表現としてある」([:9])マンガや劇画を論じる石子の姿勢は、モノとしての表現媒体の特性と表現の特性との相関関係を考察する「メディア論」だったのである。本稿の副題にある「メディア論的視座」とは、この石子の議論を参照して、表現ジャンル間の相対的距離を測定する場として表現媒体(メディア)をとらえる視座を指す。
 この視座は<戦後マンガ史>という強力な言説編制から(方法論として)一旦自由になっておくために必要なものである。<戦後マンガ史>は文献として参照可能な「(既に)語られた」表現/表現ジャンルの歴史であり、本稿もその寄与を受けて成立している。しかし劇画ジャンルの形成過程を記述しようとする際には、あたかも最初から「劇画」なる表現が確然と存在していたかのような議論、言い換えれば結果を知ってしまった現在の地点から過去の「劇画」を外在的に論じてしまう誘惑(佐藤健二[1996]の言葉を借りれば「結果の権力」)を意識的に拒否する必要があるのだ。
 本稿がジャンル論を展開するもうひとつの理由としては、石子が「マンガ表現がホンネの文脈からメーカーの戦略へと変わった」(石子[:131])と評価した1960年代後半のマンガ/劇画情況を、劇画表現の場としての少年週刊誌:『少年マガジン』から捉え返すことが挙げられる。石子は同誌が展開した劇画重視路線を、貸本劇画からの「変質」と見た。1975年という現在進行形の執筆時期の制約がこの評価を生んだとも言えるが、貸本に対してほど『少年マガジン』の特性が考察されていないことにも大きな要因があるように思われる。劇画という表現ジャンルが内包していた様々な可能性のうち、ひとつの道筋として貸本劇画から『少年マガジン』の劇画に至る過程を記述する本稿前半の記述は、だからこの石子の記述の穴を埋める作業として位置づけられる。
 「メディア論的視座」によるジャンル論は、表現の場=表現媒体がモノであることによって劇画表現を可能にするという一見技術決定論を展開しているかのように見えるしれない。しかし本稿のジャンル論は、貸本や少年週刊誌という表現媒体を、劇画の表現と読書とが交錯する構造的な<場>としてとらえ、その社会的な意味を考察する議論の一里標として位置づけられている。「作品」として結実する劇画表現を「作者」や「社会」へと一方的に還元してしまうのではなく(従来のマンガ/劇画論においてこの作業は十分すぎるほど行われてきた)、それがどこでどのように表現−演出され、読書−解釈されたのか、つまり表現媒体の社会的特性から「<劇画>の読書空間」を照射する議論の序説として、「メディア論的視座」によるジャンル論−『少年マガジン』に掲載された劇画を<少年もの>の系譜から捉え返す本稿後半の議論−を展開したい。
 表現(テクスト)の歴史的/社会的布置を表現媒体(表現を盛りつける器という意味ではコンテクストとも呼べる)に重心を据えて考察することによって、ジャンル論は表現の<場>の社会学的考察へとつなげていくことが可能になる。ストーリー展開やキャラクターの分析、あるいは表現技法による劇画論が表現に内在する様々な特性を浮かび上がらせるのに対して、本稿の「メディア論」はその表現を成り立たせる<場>の構造の考察に向かう。その相違をここでもう一度確認しておいて、具体的な事例の分析に入っていきたい。
 
2.貸本と劇画:“劇画宣言”による命名の土台
 
 1959年1月、辰巳ヨシヒロ・佐藤まさあき・桜井昌一・さいとうたかを・山森ススム・石川フミヤス・K元美津をメンバーとする「劇画工房」結成され(1)、同時に『摩天楼』と題された貸本雑誌が彼らの手によって創刊された。同工房の発足を知らせる案内文(以下“劇画宣言”)は劇画の誕生を高らかに謳っている。
 
 「…最近になって映画、テレビ、ラジオにおける超音速的な進歩発展の影響をうけ、ストーリイ漫画の世界にも新しい息吹きがもたらされ、新しい樹が芽をふきだしたのです。/それが“劇画”です。/劇画と漫画の相違は技法面でもあるでしょうが、大きくいって読者対象にあると考えられます、子供から大人になる過渡期においての娯楽読物が要求されながらも出なかったのは、その発表機関がなかったことに原因していたのでしょう。劇画の読者対象はここにあるのです。劇画の発展の一助は貸本店にあるといってもいいと思います。/未開拓地“劇画”/劇画の前途は洋々たるものがあります。…」(伴+手塚プロ[1994a:474])
 
 「劇画工房」の参加者は、大阪・松屋町周辺で出版され、駄菓子屋や露店で販売される「赤本」を通じて漫画の魅力を知った。彼らに数少ない娯楽のひとつを提供していたのは、大野きよし、酒井七馬ら大阪出身の漫画家や、大城のぼる、謝花凡太郎、芳賀たかしといった東京で発行される単行本を出す漫画家たちだった(桜井[:38-41])。その中でも手塚治虫は、贋作・盗作が横行する市場において『新宝島』(1947 原作・構成は酒井七馬)を大ヒットさせた後も『一千年后の世界』『ロスト・ワールド<前世紀>』(ともに1948)『メトロポリス(大都会)』(1949)『来るべき世界』(1951)を発表して「それまでのマンガが、急速に影が薄くなっていくように思われ」(桜井[:34])るほどの衝撃を彼らに与えた。戦前の「のらくろ」や「冒険ダン吉」とは異なる新しい漫画を提供する存在が手塚治虫だったのである。「劇画工房」参加者の初期の描線に手塚治虫の描線の影響が強く残っている(石子[:96]、佐藤まさあき[1984:110-111])のは、彼が与えた衝撃の強さの一端を示していよう。
 手塚の漫画に感動した少年たちの中には、1947年末に創刊され、手塚の「ジャングル大帝」が連載される『漫画少年』に自作の漫画を投稿する者たちがいた。寺田ヒロオ、藤本弘、我孫子素雄、石森章太郎、赤塚不二夫ら後のマンガ家たちは、他の月刊少年誌に比べて充実していた同誌の投稿欄の常連となり、大阪の桜井・辰巳兄弟も何度か入選を果たしてもいる(清水[1989])。この投稿で漫画の腕を競い合った桜井や辰巳、佐藤らは、中学卒業後、働きながら描いた漫画原稿を貸本出版社に持ち込んでいく。
 1950年代に入ると、貸本店は新刊の漫画単行本や少年月刊誌を定価の数分の一の値段で貸し出すことによって「赤本」市場から読者を奪っていく。そして「赤本」同様大手の取次店を介さずに漫画単行本を発行していた八興(日の丸文庫)を初めとする貸本出版社は、新人作家による短篇をアンソロジーとしてまとめた貸本専門誌を創刊する。1956年4月、A5判上製本の体裁をとって創刊された『影』もその一冊だった。日の丸文庫の倒産によって『影』は57年2月に一時休刊したが、名古屋で発足したセントラル文庫が『街』を同年9月に創刊、また『影』も同文庫によって復活する(石子[:85-86])。翌58年頃には『影』は「それ以上の増刷は貸本向け単行本の流通機構では不可能」な約九千部、また『街』は六、七千部を捌き、大成功となる(桜井[:108])。“劇画宣言”で「劇画の発展の一助」と賞される貸本店は、こうして桜井や辰巳、佐藤ら「劇画工房」参加者に表現の場を提供したのである。
 こうして表現の場を獲得した若き表現者たちは、「マンガにまつわりついていた既成観念、“笑い”という不可欠の条件をも無視する」(桜井[:87])ストーリー、「主人公が事件に命がけで突入していくためには事件そのものが主人公と密着していなくてはならない。それでなければ決してドラマの真実性も出ないし迫力も出ない」(佐藤まさあき[:49])というキャラクター設定によって漫画との差異化を目指す。辰巳による『劇画大学』(1968)の回顧も、手塚の描く漫画と自分の描く劇画との差異を強調している(石子[:81])。
 だが宣言文を見る限りでは、読者対象や貸本という表現の場の方が、画としての差異よりも劇画の特性として前面に押し出されている。当時の漫画表現の主な道具だったカブラペンではなく、描線の強弱をつけやすいGペンを多用した事実(別冊宝島EX[1995],夏目[1996])をもって、画としての劇画の特性を強調することは確かに可能であるし、「黒い傷痕の男」(佐藤まさあき)、「忍者武芸帳」(白土三平)、「血だるま剣法」(平田弘史)などが「悪書追放運動」のさなかでその残虐な描写を糾弾された(竹内[:74-82])事実も、劇画が逆説的ながら「笑いの要素の拒否」や「真実性」を確立しつつあったことを証明してもいよう。しかし桜井自身が劇画の定義を「錦の御旗」でしかなかったと回顧していること(桜井[:114])をことさら強調しないまでも、劇画家自身の回顧のみを拠り所に、劇画表現の特性を当時の彼らの描線に見出してしまうのは本末転倒である。
 文字/活字と画を紙の上に印刷表記するという制作技術の面では「絵物語」や「漫画」と「劇画」とは何ら相違点はないし、「劇画に特徴的な『絵画的要素』は、後から徐々にあらわれてきた」(石子[:96])という指摘もある。それでも“劇画宣言”は彼らの描く表現に劇画という新しい名称を与えた。この表現と言説との距離を説明するためには、表現の場=貸本という劇画の「発表機関」抜きにはその命名がなされ得なかったという議論の進め方が求められよう。
 桜井や辰巳、佐藤らは1950年代後半から60年代前半にかけて、手塚と表現の場を共有していない。手塚は『漫画少年』で前出の「ジャングル大帝」を、『少年』で「アトム大使」(1951、翌52年より「鉄腕アトム」)を連載して以降、『罪と罰』(1952)を最後に「赤本」から「中央=東京」の月刊誌へと表現の場を移動していったからである。『漫画少年』に熱心に漫画を投稿する辰巳や桜井らは手塚治虫と表現の場を(擬似的な形態ではあったが)共有していたのだが、プロの貸本の表現者となったとき、彼らと手塚の表現の場は隔離状態となったのだ。「この“影”の発刊にこぎつけた我々の潜在心理のなかには、中央の雑誌に対するコンプレックスと挑戦意識がなかったとは言いきれまい。…(中略)…どうせ中央の雑誌に描けないならせめて我々の手で雑誌形式のものを……といった気持ちがどこかにあったのではないだろうか?」(佐藤まさあき[:23-24])という排他的な意識こそが、劇画を劇画たらしめていた条件のひとつだった。
 そしてこの排他的な意識こそが、《手塚治虫》(表現者個人というよりは彼の描く「漫画」)を「貸本(の表現)ではない(・・・・)」と区別することを可能にしたのだ。「手塚さんは、実は貸本マンガの範疇に入らないんです。貸本マンガが勃興するころには、もう中央で超エリートだった」(長井・桜井[1987:760])。つまり初期劇画は表現=「見た目」を確立する作業と並行して、貸本を表現の場としているがゆえに劇画である、というジャンルの枠組みを設定したのである。「劇画家というのは、貸本マンガ家の別称であるかのように見なされて」(石子[:94])いたことは、裏返せば貸本に掲載される表現のみを劇画として認定しようとする排他的なジャンルがここに誕生したことを指している。もちろん表現技法や読者対象は劇画を劇画たらしめる必要条件なのだが、貸本という物質的基盤が存在して初めてそれらは劇画の十分条件へと転化するのである。
 しかし以下に述べるように、劇画とほぼ時を同じくして誕生した「中央」−<陽の当たる>ところ(石子[:150])−の週刊少年誌:『少年マガジン』は、貸本とは異なる表現媒体でありながら劇画を積極的に掲載していく。表現の場の移動が劇画にもたらした変容を続いて見ていこう。
 
3.『少年マガジン』と劇画:“新・劇画宣言”と劇画の範疇の変容
 
 “劇画宣言”から遅れること二ヶ月、1959年3月に講談社から戦後初の少年週刊誌として『少年マガジン』が創刊された。翌月の皇太子成婚に沸くことになるこの年を前後して、新聞社系の『週刊朝日』や『サンデー毎日』の独壇場だった週刊誌界に『週刊新潮』『週刊大衆』『週刊明星』『週刊現代』『週刊文春』といった出版社系週刊誌が参入し、雑誌媒体はテレビ時代の到来に歩調を合わせるように週刊化が進む。『少年クラブ』(46年に『少年倶楽部』より改題)や『ぼくら』といった月刊少年誌を発行していた講談社にとっても、この週刊誌時代の到来を見越しての『少年マガジン』創刊だった。
 「毎週木曜ぼくらの週刊誌」と題された『少年マガジン』創刊号は大関・朝汐が男の子を抱き上げる写真が表紙を飾った。最終ページには「編集賛助員の先生がた」の名が連ねられ、東京都教育委員長・木下一雄の「諸君!週刊誌を読もう」という、新たに誕生した週刊少年誌の効用を読者に呼びかけるコメントも掲載されている。同号に掲載された作品/記事を拾い上げると、「まんが」は五本のみで、「連載小説」として「月光仮面」「探偵京四郎」があり、そのほかに相撲やプロ野球の記事や「少年タワー」「週間豆新聞」と題されたニュース記事も盛り込まれている。別冊付録が三冊付いていたことからも、このときの『少年マガジン』はまだ『少年クラブ』の週刊誌版の体裁を脱し切れていない。
 同誌がこうした月刊誌色を薄め、連載マンガ(さらには劇画)を重視した誌面構成を始めるのは内田勝が第三代編集長に就任した1965年以降である。創刊当初の読み物とマンガの並列から、マンガと巻頭のグラビア特集を中心とした誌面構成が始まる(3)。この年手塚治虫の新連載「W3」が突如中止されて連載の主軸を失った内田は、貸本劇画の「リアルな画面と、シリアスな人間ドラマ」性に注目し(内田[1994:181])、「ワタリ」(白土三平)、「墓場の鬼太郎」(水木しげる)の連載を開始させる。先に引用した佐藤まさあきの言葉とつき合わせて見ても、内田=『少年マガジン』の編集方針と劇画家たちとの距離の近さを指摘できよう。1960年代半ばのこの時期、『少年マガジン』は「《手塚治虫》ではない(・・・・)表現の模索」という点では、先に見た貸本劇画の志向と接点を持っていたのだ。
 しかし戦後マンガ史において「劇画家」と称される白土や水木が連載を開始したとはいえ、『少年マガジン』誌上における彼らの位置付けは「まんが」家としてであった。というのも、「劇画」の呼称はまだこの時点で登場していなかったからである。
 「劇画」の呼称が『少年マガジン』誌上に初登場したのは、さいとう・たかをの「血風」が“大長編本格時代劇画”として紹介された1966/5/15号である。その後も“大長編ボクシング劇画”「カウント8で起てっ!!」(7/31号)、“異色大長編怪奇劇画”「人犬」(9/11号)、“異色SF大冒険劇画”「地下大陸」(10/9号)、“剣豪時代劇画”「けもの剣」(11/13号)、そして“マガジンが自信をもっておくる宇宙大冒険劇画!”「サイレントワールド」(12/18号)とさいとうの作品はすべて劇画として紹介され、また翌年1967/8/20号から連載が開始された“超大作時代劇画”「刃之介」には、頁横で「ひしひしと、むねにせまるこの迫力!少年雑誌界に新風をふきこみ劇画の新分野を開拓した大傑作!さあ読もう!」というキャプションが付されている。
 「ワタリ」が“傑作忍者まんが”、また水木の「悪魔くん」が“異色怪奇まんが”として紹介されている(ともに1966/1/1号)ことと比較すると、時期は若干異なるが、同誌の劇画重視路線がさいとうを旗手として開始されたことは事実として認定しておいてよいだろう。表現者の自称/他称と掲載作品としての劇画とは必ずしも直結しておらず、劇画は編集部の判断の産物でしかなかったのである(4)。また、劇画原作のパイオニア・劇画の帝王として振る舞った(5)梶原一騎が原作を担当した「巨人の星」や「あしたのジョー」も、編集工程を通過するとそれぞれ“あせとなみだでつづる感動の大型野球まんが”“感動!興奮!すごい人気のボクシングまんが”として紹介されていること(ともに1969/8/10号)も付言しておこう。劇画の初登場から三年を経過したこの時点においてもなお、『少年マガジン』内の劇画観は戦後マンガ史の定義とズレている(6)
 1969年の時点までは劇画はまだ呼称によって「まんが」と区別されているだけである。その意味では「メーカーの戦略」によって劇画が「変質」したという前出の石子の指摘は事実の一面を言い当てていよう。しかし本稿が劇画の変容を『少年マガジン』に注目して考察するのは、同誌が“劇画宣言”とは異なる形で劇画に定義を与えようとした事実を重視しているからである。
 『少年マガジン』において劇画の範疇が明確に提示されたのは、「劇画入門」と題された特集(企画・構成:大伴昌司)が巻頭カラーで組まれた1970/1/1号である(7)。「劇画は、未来に無限の可能性をもつ文芸だ。その表現手法には、数知れないほどたくさんの形式がある」と宣言するこの特集では、「1枚の絵は1万字にまさる」という謳い文句の実例が「無用ノ介」のシーン解説を通して挙げられる。「ストーリーまんがなんてよび方は、もう古いですよ」(1967/8/20号掲載の「木乃美光のホイホイまんが家訪問」でのインタビュー)と表明していたさいとうの劇画が題材に取り上げられたことは、呼称レベルと同時に表現レベルでも『少年マガジン』がさいとうを「劇画家」の第一人者として認定していたことを示す事例であろう。
 劇画を掲載する表現媒体自身がその構成要素を分析するというメタ言説の中で強調されるのは、劇画の「伝える情報量」の活字に対する優位性である。表現論的な観点からすればこの強調自体は活字の存在を暗黙の前提としている点で「1万字にまさる」ことの最終的な結論とはなりえないのだが(しかも解説文自体が活字によって構成されている)、特集の解説文は構図・ストーリー展開・シチュエーションといった劇画の各種表現技法を「1枚の絵」のエコノミーに依拠しつつ説明している(前出の“劇画宣言”と区別するために本稿ではこの特集を“新・劇画宣言”と呼ぶこととする)。
 
 「映像文化の洗礼をうけた世代(おもに昭和二けた生まれの人々)が増えるにしたがって、文字だけを媒体とした文化は、急速に衰えていくだろう。活字文化の時代は終ろうとしている。」(同特集の解説文)
 
 この解説文を通じて劇画は「映像文化」の一表現として位置づけられている。貸本劇画はすでに見たように漫画との相違を表現技法や読者対象の点で強調しつつ誕生したわけだが、ここでの「劇画」の語彙はそうした対立関係をことさらには主張しない。「活字文化」への共闘という点で、劇画=「1枚の絵」は漫画の別称−劇画が漫画を吸収合併した形での−と言ってもよいほどである。このことは従来の漫画を劇画と呼び換えることによって、桜井や佐藤が拒否した「笑い」や「真実味のなさ」といった漫画の特性までをも薄めさせる。“新・劇画宣言”の定義に従って当時のマンガジャンルの情況をとらえれば、「漫画」という漢字表記ではなく「マンガ」(もしくは「まんが」)という中性的な仮名表記がふさわしい表現がこのとき誕生したとも言えるのである。貸本劇画の事例に則して言い直せば、ここで成立が宣言されている<劇画>は、『少年マガジン』誌上に掲載される表現の名前なのである。
 この特集=“新・劇画宣言”を通じて、『少年マガジン』は劇画のかつての仮想敵:「(手塚治虫を参照例とした)漫画」を「活字文化」との比較が可能な平面へと移行させる場として存在することになる。当時すでに存在していた劇画専門誌:『ガロ』(1964年 青林堂)は「劇画の本来的なあり方」が追求される場であったわけだが(石子[:126-127])、その実践はマンガという表現ジャンル内のひとつの分野を発展させていくことに主眼が置かれていた。一方「新しい時代の視覚総合誌!」(1970/1/4号の広告)としての『少年マガジン』はこうした個々の表現者による劇画表現の洗練とは異なる方向、<劇画>によって表現媒体の特色を打ち出すという戦略に従事していくのである。
 その劇画重視路線がもたらした結果の一例として、真崎・守が監修・構成を担当した「現代まんがの誕生」と題された十五頁に渡る特集(1971/1/3号)を最後に見ておこう。
 この特集はタイトルが示す通り、戦前の「のらくろ」に代表される表現の世界が手塚治虫の「映画的表現法」によって大きな転換期を迎え、絵物語というもうひとつの伝統を踏み越えながら月刊誌の時代が到来したこと、そして貸本劇画と週刊少年誌の時代に「ギャグの復権」が行われた後、「意識の映像化」という「未知への挑戦」が行われつつあるという戦後マンガ史を総括するものである。そして現在の情況として、「リアリズムの限界につきあたった劇画」が赤塚不二夫や谷岡ヤスジらのギャグマンガのシュールさに触れることで変質を遂げていると説明し、ジョージ秋山の「アシュラ」やつげ義春の「ねじ式」などの表現が「ストーリーを拒否し、シュールレアリズムの方法を用いて“意識”を映像化し、ストーリーはなくても、読者になにかを感じさせようとする手法」であると解説を加える。この歴史的総括は、“新・劇画宣言”を経て<マンガ>と活字文化とを比較する平面となった、『少年マガジン』という表現媒体においてこそ可能だったと言える。
 しかしこの解説に続く今後の展望:「いま、まんがは、未知の世界に足をふみ入れた。その行く手に何が待っているかはわからない。まんがの世界になにかが芽ばえている…。」という混迷情況の説明は、ほんの一年前の特集における<劇画>成立の宣言を自ら疑っているかのようにも見える。この自家撞着状態の一面は、例えばこの特集の翌々週、「巨人の星」が最終回を迎えた1/17号の次号予告に現れている。この予告では、二年前でさえ特権的だった「劇画」の呼称が踊り、同誌が劇画専門誌へと変貌したかの観さえ−次号の『少年マガジン』には一遍の「まんが」も掲載(・・)されない−あるのだ(8)。劇画を有力な商品として利用したはずの『少年マガジン』が劇画に乗っ取られたかのような、表現と表現媒体との転倒した関係がここに生起している。
 この事態は、『少年マガジン』も貸本と同様、表現ジャンルが成立する必要条件であったことを示す象徴的な事例であろう。同誌の劇画定義の曖昧さ−同誌に掲載される表現こそが<劇画>である−が、逆に<劇画>を載せる媒体でなければ『少年マガジン』ではない、という表現媒体への反転した規定を呼び込んでしまったのだ。
 <劇画>ジャンルの変容は表現の場の構造の変容と相補的な関係にある。その変容過程に関する議論は、だからこそ単に場が異なることの指摘(今までの議論で言えば命名の差異の指摘)から、表現の<場>における劇画の位置の考察へと向かっていかなければならないのである。
 
4.<少年もの>の系譜における劇画:劇画の読書体験と<少年>の成長
 
 <場>の考察を始める前に、“劇画宣言”から「現代まんがの誕生」に至る劇画の読者層−場の一方の構成要素−について概観しておきたい。
 貸本劇画は“劇画宣言”にあったように、1950年代末から60年代初頭にかけて「子供から大人になる過渡期」の者を読者対象として描かれた。一方『少年マガジン』は、1959年の創刊時に「小学校五、六年生になっていた」世代(「団塊の世代」と呼ばれることになる<少年>たち)を読者層の中心に設定した(内田[1980=1989:136])。つまり劇画が掲載される貸本と『少年マガジン』とでは、ほぼ時を同じくした誕生時点で設定された“期待としての”読者の年齢層に重なり合いはなかった。
 だが『少年マガジン』が劇画を掲載し始める60年代中盤から後半は、同誌の創刊当初からの読者が「過渡期」を迎える−貸本劇画の設定した読者層と重なる−時期となる。この間前出の『ガロ』や『コミックmagazine』(1966年 芳文社)が劇画誌として創刊され、『漫画アクション』(67年 双葉社)『ヤングコミック』(67年 少年画報社)『ビッグコミック』(68年 小学館)『プレイコミック』(68年 秋田書店)といった、最初から<青年>−戦後生まれの<少年>たちが当時迎えつつあった「世代」の名称−を主要な読者層に設定する表現媒体が次々と登場する。貸本劇画は漫画を卒業した「非学生ハイティーン」(権藤[1969=1989])を読者層に取り込むことを目標として掲げたわけだが、60年代後半にはその目標はこうした様々な表現媒体=<青年もの>の登場によって達成される。二十歳以上の大学生や社会人が劇画の読者層となったのだ。
 劇画(およびマンガ)の量的拡大がなされる過程において、初期の<少年>読者を切り捨てることなく牽引してきた『少年マガジン』は、71年の時点で二十歳以上の<青年>を中心読者とした<少年もの>の表現媒体、という看板と中身とのギャップを露呈することになった(9)。そして内田の後を受けて宮原照夫が第四代編集長の内示を受けた1971年3月には、全盛期の半分以下の60万にまで部数を減らてしまう。宮原はその対応策として劇画重視路線から撤退し、取り逃がしてしまった「普通の読者」の再獲得のために誌面構成を大幅に変更する(宮原[1993])。「少年マンガ誌が一斉に子供じみたマンガに方向転換したことにがっかりもし、やむをえないことかとも思った」(呉[:54])という記憶を残し、大伴昌司の巻頭特集が本人の他界によって終了する1972年を「たしかにぼくの(、、、)『少年マガジン』は終わりつつあった」(荒俣/高山[1994:156])と回顧させてしまうドラスティックな誌面の変化は、「劇画」の呼称が再び限定的に使用されるようになったことからも傍証される(10)
 この『少年マガジン』の商業的な挫折を、「作品」の魅力の衰退や、制作者のマーケティング的戦略に還元して説明することは可能である。しかし呉や高山の感慨を生み出した<場>としての同誌の機能の考察こそが、ジャンル論を社会学的に展開する上で求められよう。創刊当初からの読者を十年以上も繋ぎ止めていた<場>とは、一体いかなる空間だったのか。次に回答されるべきはこの問いである。そこで小森[1996]の視座を参照しながら、「出来事」としての<劇画>(11)=演出と読書とが交錯する<場>について検討していきたい。
 
 まず『少年マガジン』という<場>において劇画が占めていた位置を検討していきたい。“新・劇画宣言”に見られたように、「映像文化」の一翼を担うマンガの新しい潮流として捉えられていたことは事実であろう。しかしそれはあくまで表現の場(<場>を成立させるモノとしての表現媒体のレベル)における劇画の位置の指摘である。<場>として『少年マガジン』を捉えるとするなら、同誌が<少年もの>の演出スタイルの系譜に則っている点に注目しなければならない。
 <少年もの>の表現媒体とそこに掲載される表現(テクスト)との関係の先行例としては、後の劇画家や漫画家が熱心に投稿作を送った『漫画少年』の演出スタイルが挙げられる。同誌の「創刊のことば」には、各テクストを教育の手段として用いようとする演出意図が見て取れる。
 
 「漫画は子供の心を明るくする/漫画は子供の心を楽しくする/だから子供は何より漫画が好きだ/「漫画少年」は、/子供の心を明るく楽しくする本である/「漫画少年」には、/子供の心を清く正しくそだてる小説と読物がある/どれもこれも傑作ばかり/日本の子供たちよ/「漫画少年」を読んで清く明るく正しく伸びよ!!」(寺田[1981:3])
 
 この「創刊のことば」の起草者は、昭和初期に『少年倶楽部』の編集長として当時の<少年もの>ジャンルを牽引した加藤謙一である。加藤は「学童に関連をもつすべての人のために奉仕する事業を営む」目的を「学童会館」なる組織によって達成するという理想を抱き、GHQによる公職追放を受けながら、1947年12月に『漫画少年』を創刊した(清水[:15-30])。雑誌媒体を通じた教育への熱意は、同誌の原型ともなった『少年倶楽部』の「本誌の編集方針」(1915年4月号)を継承している。そこでは読者を「偉大なる人」へと教導する“家庭の教科書”としての自己規定と、「一生を通じてその児童を鞭撻するところの心棒を形造るために最も多くの力を注」ぐことが宣言された。少年小説、漫画、各種記事、投稿欄といった様々なテクストは、この編集方針に従って網羅的に編成される(岩橋[1988])。『少年倶楽部』と『漫画少年』はともに、読者が「偉大なる人」もしくは「清く明るく正し」い人へと成長する一助たるべく、少年小説や漫画といった「教材」を提供することに<少年もの>の演出スタイルの機軸を据えたのである。
 『少年マガジン』による<劇画>の演出は、こうした<少年もの>の演出スタイルの延長線上に位置づけられる。確かにテクストの効用面に関しては上記二誌ほど明確に示されてはいない。しかしすでに見た「劇画入門」というタイトルや「現代まんがの誕生」の教科書的な解説からは、「映像=視覚文化」時代の新たな表現である<劇画>を、「作品」としてだけではなく知識としても読者に理解させるという演出意図がにじみ出ている。さらには、<劇画>の別称でもある『少年マガジン』という媒体自体を選別的に認知することを(上記二誌ほど直接的ではないにせよ)読者に求める演出意図も見出せる。
 石子が嘆いたように、講談社という「メーカーの戦略」を通じて芸術としての劇画は『少年マガジン』において「変質」を遂げる。だがその「変質」は、目新しい表現ジャンルを娯楽商品に変換した、という商業主義的な側面だけを指しているわけではない。<少年もの>の系譜上にある表現の場に劇画が移植されることによって、芸術的進化を志向する劇画(例えば『ガロ』におけるような)とは異なる、「教材」としての<劇画>がここに成立したのである。言い換えれば、『少年マガジン』という<場>は、<少年>読者の成長を導くテクストとしての<劇画>を生み出したという点で、劇画ジャンルの「様々な可能性」のひとつを切り開いたとも言えるのだ。
 続いて『少年マガジン』に用意された「出来事」性を検討しよう。同誌は劇画を演出する<場>であると同時に、様々な読書の形態を許容する<場>でもあった。横尾忠則のデザインによる奇抜な表紙を眺め、大伴昌司の企画・構成による怪獣や超古代文明の巻頭特集を通過して、広告に挟まれて掲載される「作品」群:まんがと劇画の混在の中を駆け抜けていく読書。あるいは同誌を本棚に並べていくという「読まない読書」の形態もある。こうした読書行為を広い意味での「メディア接触」と呼ぶならば、それは『少年マガジン』という「出来事」への参加と言い換えることができる。つまり、「右手に『ジャーナル』、左手に『マガジン』」という全共闘世代の学生の行動を象徴的に表した標語も、記事や作品に内包されたメッセージの解釈の位相というより、『少年マガジン』という表現媒体そのもの−つまり<劇画>−の存在を認める行為の「出来事」性を言い表していたと読み替えることができるのだ。
 演出する側にとっては一種の教材である各テクストは、その「出来事」に少年の成長という目的を持ち込む。<少年もの>の表現媒体にとって、読者を「偉大なる人」や「清く明るく正し」い人へと導くことがひとつの目標だったからである。こうした教導主義的な側面は若干薄れたとはいえ、『少年マガジン』もまた少年が成長を確認する<場>として機能する。読者の年齢層を低下させて本来の<少年もの>へと回帰する『少年マガジン』に違和感を覚えた呉や高山は、同誌が成長の確認作業を行う<場>ではなくなった−なぜならその素材である<劇画>が掲載されないから−ことを直感したのである。「出来事」としての『少年マガジン』とは、「大人になる過渡期」の読者に向けて作られた貸本劇画を<少年>の成長確認の教材へと「変質」させ、さらに様々な記事やテクストを編成することを通じて、<少年>読者に成長を確認する素材を毎週定期的に提供する<場>だったのである。
 
5.<劇画>の読書空間の実定的な記述のために:積み残された課題と今後の展望
 
 <劇画>ジャンルの成立・変容過程の事例研究と、表現媒体を演出と読書の<場>として捉え返す以上の議論は、多相的な実践である<読む>ことをめぐる議論へと連結されなければならない。それは本稿が『少年マガジン』という表現媒体についてのみ試論として提示し得た読書の<場>の社会学的考察を、<劇画>(もしくは<マンガ>)という表現ジャンル全体について行うという課題が残されていることを意味する。例えばピエール・ブルデューによる「文学場」の自律的なありようの考察(Bourdieu[1982=1995, 1996])が果たして劇画やマンガに関しても可能なのか、という問いが残っていよう。さらにこの問いは《近代》における読書形態に関する考察という大きな課題をその背景にしてもいる。本稿で行われた考察は、こうした壮大な課題への序説的回答である。この序説の段階を通過するために解決されるべき、積み残された課題について最後に言及しておきたい。
 
 <劇画>の読書空間の記述にとって、例えば「メディア・リテラシー」概念は再考の余地を残している。本稿では『少年マガジン』の読書に関して「読まない読書(・・・・・・)」という一見矛盾した形態を指摘したが、それが矛盾として受け止められてしまうこと自体に、従来のメディア・リテラシー概念に内在した問題が見出せる。
 水越[1996]は、「メディア・リテラシー」という語彙/概念が@メディア機器使用能力Aメディア鑑賞・享受能力Bメディア活用・表現能力の三つの次元から階層的にとらえられ、この三次元が「それぞれ独立したものではなく、概念としても実践としても、相互作用的な関係」にあることを概括している。『少年マガジン』という「メディア機器」の使用(@)とは、水越が「パラパラめくり」という幼児の行動で例示したような、紙を綴じた雑誌というモノをめくっていく能力を発揮することに当たる。それと同時に『少年マガジン』の読書は、Aのような自律的なメディア接触/利用の側面ももちろん持っている。しかしAやBのリテラシー概念が、どちらかと言えばメディア接触者による「意味」の生産の側面に重心を置いているのに対して、本稿が仮説的に指摘した<場>への参加の読書形態は、活字や画からの「意味」の抽出を必ずしも指すわけではない。「左手に『マガジン』」というメディア接触のあり方は、活字や画による表現を構成要素とした表現媒体そのものを「理解」する点にリテラシーを発動させていたのである。その意味では、メディア・リテラシー概念を広義のメディア接触のレベルにまでその範囲を拡大していく方向性が検討されるべきだろう。
 「メディア・リテラシー」を読書空間の記述にとって有効な方法概念として再考することは、同時に読まれる対象としての様々な表現ジャンルの分析の方法論に関しても再考を促すことになる。本稿冒頭で「メディア論的視座」を採ることの理由として、ジャンル論が「内容=メッセージ」分析に偏っていたことを指摘したが、こうした議論の傾向は、書物というメディア形態が「読め!」というメタ・メッセージを常に発していることを逆説的に証明してしまっている。
 つまり、本稿が表現を表現として成立させる、モノとしての表現媒体にこだわったのは、ある表現を<読む>ことを検討する研究者自身が、書物のこの強力な作用に捕らわれてしまう危険を回避するためでもあったのだ。「メディア・リテラシー」を「内容」の解釈能力としてのみとらえてしまうことは、たとえ「批判的」なメディア接触を目指す「リテラシー教育」の言説であっても、そしてその啓蒙性を批判する言説であっても、その「批判」を可能にする表現媒体の存在を暗黙の前提としていることによって、例えば書誌学がフェティッシュな快楽に溺れていくのと似た危険と隣り合わせになってしまうのである。「読むという行動のさらに基層にある、書物の操作の仕方、あるいは書物を支える情報技術の様態」についての根元的な検討がメディア・リテラシー論においてなされていないことに水越は警鐘を鳴らしているが(水越[:185])、それはリテラシー概念の再考にあたって「メディア論的視座」の重要性が高まっていることの指摘なのである。
 <マンガ>や<劇画>に関しては、一方で夏目[1996]を代表とする「表現論」が、また一方では荒俣/高山[1994]のような「博物学的方法」が展開されている。前者は表現ジャンル、後者は表現媒体についてミクロ的な(同時にフェティッシュな志向を備えた)検討をしている点で、「メディア史」の文脈から注目すべき作業である。こうしたモノとしての表現や表現媒体の検討が<場>の考察と相補的な関係を保つことこそ、メディアやメディア接触の社会性を記述していく上で求められる。
 日本の近代小説を、その読書を可能にする仕掛け=装置の位相から捉え返す作業を行った紅野謙介がいみじくも自らの論究を「フェティシズムがもたらす豊穣な混沌からは遠く、また耽溺のよろこびからも隔たっている」(紅野[1992:257])と振り返る姿勢を、今後われわれは「メディア論」において実践していかなければならない。それは書物の波に溺れることでもなければ、テクストを政治主義的な意図に合わせて加工することでもない。物質(マティリアル)としてのメディアへのフェティッシュなこだわりを持ちつつも、それをいかに記述の素材(マティリアル)へとシフトさせていくかという課題を解決するために、メディアがメディアとして成立する<場>を常に意識し、それを記述していくことが必要なのだ。そのためにはメディアの歴史性/社会性に関する議論をさらに精緻にする方法概念としての「メディア・リテラシー」に更なる検討を加え、「読書」なり「メディア接触」なりといった社会的実践の記述の実定性=精巧度を高めていく努力が必要だと言えよう。
 
 
(1)「劇画工房」という名称は1957年末に辰巳ヨシヒロが貸本誌『街』に「幽霊タクシー」を発表した際に初めて用いられているが、本稿では後の劇画家たちが集団として公表した59年を「劇画工房」の結成年としておく。劇画と表現媒体との相補的な関係を重視するからには、「劇画工房」が自らの表現の場として『摩天楼』を獲得したときこそ、「劇画工房」の始動時と言えるからである。
(2)ただし“劇画宣言”と同年の1959年には、手塚は貸本誌『X』に短編三本:「刹那」「落盤」「花とあらくれ」を掲載している(伴+手塚プロ[1994b]巻末年表を参照)。
(3)1965年と67年の新年(1/1)号の誌面構成を比較すると、前者が「読み物」(作者名のあるもの)5本、「まんが」9本であるのに対して、後者は「読み物」(同)1本、「まんが」は新連載3本を含めて10本となっている。また、後にひとつの編集の柱になる巻頭特集では大伴昌司が1966年夏に初登場している。
(4)劇画の呼称の“混乱”状態はこの後も続く。例えば1967/1/1号から連載開始となった佐藤まさあきの「でっかい奴」(原作・福本和也)は“新連載痛快感動劇画”と紹介されるが水木の「悪魔くん」は相変わらず“異色大怪奇まんが”であり、1968/5/12号の影丸譲也の「幽霊戦艦」が“超大作恐怖劇画”である一方で水木の「ゲゲゲの鬼太郎」は“妖怪まんがの決定版”となっている。
(5)『“梶原一騎「引退」記念作品”一騎人生劇場 男の星座』第1巻(1985 日本文芸社)冒頭の「さらば!友よ」と題された序文は、「思えば4分の1世紀−25年の余にわたり梶原一騎は劇画の原作(・・・・・)を書いてきた」(強調は引用者)と自らの表現活動を振り返っている。
(6)本稿が劇画の呼称の登場という一見些末な現象にこだわるのは、冒頭で触れた「結果の権力」を相対化するためには、こうした「事実」を丹念に積み上げる作業も必要だからである。例えば劇画/『少年マガジン』との蜜月状態を指摘されることの多い全共闘運動はこの年、1969年には急速に収束する。ということは「劇画(特に「あしたのジョー」)」と全共闘との密接な関係を指摘する言説(例えば吉弘[1993],蕪木[1994])は、劇画の語彙の定義を混乱させたまま、つまり結果として「劇画」として認知された作品を当時の情況に持ち込んでしまっているのである。劇画と安保闘争とのアナロジカルな結合を「政治至上主義」である批判した権藤[1970]は、「結果の権力」に異議を申し立てたひとつの参照例となろう。
(7)扉頁では筆を口にくわえた無用ノ介が、右手に持った筆で自らの立ち姿の羽織に彩色しながら読者の方を向いている構図が描かれ、また頁右下にはさいとうの劇画制作姿の写真がはめ込まれている。
(8)「超々巨弾!少年マガジン新春豪華号 第4・5合併号のお知らせ」に掲載予定とされた各作品は、“新股旅劇画”「見かえり峠の落日」、“少年マガジン愛読者賞課題作〈未来が待つ落し穴〉@”「野牛のさすらう国にて」、“ファンタジック劇画”「恋人はD51」、“闘魂劇画”「パピヨン」、“歴史劇画”「アシュラ」、“ピカレスク劇画”「キバの紋章」、“まんが劇画”「ホモホモ7シリーズ」、“学園劇画”「ワル」、“恐怖劇画”「小さな野獣」、“二大ナンセンス”「ガキ道講座」/「親バカ天国」となっている。
(9)註(8)と同号の予告頁にある「ヤング製品大プレゼント」の枠囲みには、「71年のきみカッコよくする、ヤングマンのためのフィーリング製品をプレゼントする新年大企画!」(強調はともに引用者)というリード文が付されており、編集の側からも<青年(ヤング)>が主要な読者層として認識されていることが窺える。
(10)1972/1/1号に掲載されているのは“ボロボロ爆笑まんが”「オモライクン」、“感動ボクシングまんが”「あしたのジョー」、“大爆笑そこぬけギャグ”「天才バカボン」、“熱血ヒューマニズム劇画”「武士道」、“超大型娯楽快作”「釘師サブやん」、“空手ノンフィクション”「空手バカ一代」、“学園ハードボイルド”「ワル」、“国際スパイ劇画”「カワリ大いに笑う!」、“ペーソス・ギャグ”「男おいどん」、“大型事件劇画”「カメラマン サム」である。一年前に“学園劇画”と呼ばれていた「ワル」が“学園ハードボイルド”へと「改称」されている点に、同誌の路線変更の一面が窺える。
(11)小森は、例えば円本の改造社版『現代日本文学全集』が関東大震災後の家庭に入ってくる様を、消費者が「日本国民」という主体性を擬装的に獲得していく過程として指摘する。また同時期に講談社から創刊された『キング』の購買行為を、「単なる消費行為としてとらえるのではなく、共有された時間と空間の中における出来事への参加としてとらえるべき」であるとしている。ここで指摘されているのは、個人的かつ社会的な指標としての書物/雑誌の購入がまさしく「出来事」への参加としてとらえ返されること、言い換えればテクストに内包された「意味」によるオーディエンスの態度変容の考察の前提となる、モノとしてのメディア接触の「出来事」性である。
 
文献
 
荒俣宏/高山宏 1994 『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』 講談社
伴俊男+手塚プロダクション 1994a 『手塚治虫物語 オサムシ登場 1928~1959』 朝日文庫
1994b 『手塚治虫物語 漫画の夢、アニメの夢 1960〜1989』 朝日文庫
別冊宝島EX 1995 『マンガの読み方』 宝島社
Bourdieu, Pierre 1992 Les regles de l'art. Genese et structure du champ litteraire, ditions du Seuil =ピエール・ブルデュー 1995,1996 『芸術の規則T・U』 石井洋二郎(訳) 藤原書店
権藤晋 1969 「かつて劇画は生き死をその本体としてあった 戦後意識の惨めな展開と 劇画」 『漫画主義(六号)』 (竹内オサム・村上知彦[編] 1989 『マンガ批評体 系 第一巻』 平凡社 pp.175-195)
1970 「マンガ文化の風化と奈落」 『現代の眼』1970/2 pp.138-145
石子順造 1975=1994 『戦後マンガ史ノート』(復刻版) 紀伊國屋書店
石子順造・梶井純・菊池浅次郎・権藤晋 1969 『現代漫画論集』 青林堂
岩橋郁郎 1988 『「少年倶楽部」と読者たち』 刀水書房
蕪木和夫 1994 『劇画王 梶原一騎評伝』 風塵社
小森陽一 1996 「近代日本文学とオーディエンス」 国際シンポジウム“カルチュラル ・スタディーズとの対話”(1996.3.15-18.) ワークショップ‘Media,Technology and Audience’報告資料 東京大学・社会情報研究所(ISICS)カルチュラル・スタデ ィーズシンポジウム事務局
紅野謙介 1992 『書物の近代』 ちくまライブラリー
呉智英 1990 『現代マンガの全体像[増補版]』 史輝出版
宮原照夫 1993 「マガジン過激路線からの脱皮」 『いきなり新連載2』 JICC出版局 pp.120-124
水越伸 1996 「情報化とメディアの可能的様態の行方」 『岩波講座 現代社会学22 メディアと情報化の社会学』 岩波書店 pp.177-196
長井勝一・桜井昌一 1987 「対談 「マンガの原点は貸本だね」 劇画の仕掛人が語る 貸本マンガ盛衰史」 『幻の貸本マンガ大全集』 文藝春秋 pp.755-766
夏目房之介 1996 『マンガはなぜ面白いのか その表現と文法』 日本放送出版協会
Ong, Walter J. 1982 Orality and Literacy, The Technologizing of the Word, Methen=W−J・オング 1991 『声の文化と文字の文化』 桜井直文・林正寛・糟谷啓介(訳) 藤原書店
桜井昌一 1985 『ぼくは劇画の仕掛人だった【上巻】 劇画風雲録』 東考社
佐藤健二 1996 「印刷革命と読むことの近代」 『岩波講座現代社会学22 メディアと 情報化の社会学』 岩波書店 pp.73-96
佐藤まさあき 1984 『劇画私史三十年』 東考社
清水勲 1989 『「漫画少年」と赤本マンガ ―戦後マンガの誕生―』 刀水書房
竹内オサム 1995 『戦後マンガ50年史』 ちくまライブラリー
寺田ヒロオ[編著] 1981 『“漫画少年”史』 湘南出版社
内田勝 1980 「マンガを語る」 『青年心理』1980/3 (竹内オサム・村上知彦[編] 1989 『マンガ批評体系 第三巻』 平凡社 pp.135-150)
1994 「『少年マガジン』と梶原一騎」 高取英[編] 『「梶原一騎」をよむ』 ファラオ企画 PP.176-184
山本明 1978 「劇画的世界としての現代」 『中央公論』1978/11 pp.215-225
吉弘幸介 1993 『マンガの現代史』 丸善ライブラリー
 
※『少年マガジン』『サンデー毎日』『少年倶楽部』については文中および註で出典号を指摘したので省略した。