<マンガ>のリミット
−小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって−
 
                                  瓜生吉則
 
1.<マンガ>である/ないのあいだ
 
批判の砲弾をくぐりぬけて
 小林よしのりという一人のマンガ家、および彼の描く『ゴーマニズム宣言』シリーズ*1について語るということ。ただそれだけのことが、語る当人の思想信条や歴史認識などを語ることにもなってしまう、そんな情況がここ数年続いている。98年夏に発刊された同シリーズの特別篇『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(以下『戦争論』)がそのきっかけだったことは、おそらく言を待たないだろう*2
 「たかがマンガ」(大月2000,13)である作品群が招き寄せたこの情況を、まずは「奇妙である」と率直に表明することから、本章の議論を始めたい。それは、「されどマンガ」という、ある表現ジャンルの本質を前提にした結論に早上がりしないためでもある。
 
 例えば、こんな『ゴー宣』評がある。
 
 「ゴーマニズム宣言」(以下「ゴー宣」と略すことも)が切り開いた世界は、「論理」を漫画で補ったところにある。これまで、漫画において絵が補うものといえば「物語」だった。読者は、絵によって、活字からイメージを膨らませる苦労を省略できる。「ゴー宣」の魅力は、無表情になりがちな活字による論理の世界に、絵という表情を盛り込んだことであり、人々の論理への接近を楽しいものとした。(上杉1997,15)
 
 上杉が上梓した『脱ゴーマニズム宣言』は、『ゴー宣』内での「従軍慰安婦」描写における「事実誤認」を批判する書物である。上杉は右のような「功績」を認めているからこそ、読者が「間違った」歴史認識を持つことを危惧する。同時に、一種の「宣伝ビラ」にすぎなくなってしまった『ゴー宣』はマンガとして「ひん死」の状態にある、とも指摘する(ibid,14)。
 こうした『ゴー宣』評が「当たっている」かどうか、その判定はとりあえず留保しておこう。ただし、(2001年)現在も同作が『SAPIO』誌上で連載を続けており、文庫本や単行本の売り上げが極端に減ったという現象も起きてはいない事実は、併せて挙げておかねばなるまい。400頁近くもの量を描き下ろした『戦争論』は発刊後一年で50万部を超える売り上げを達成したし、その後賛同・反論双方を含む大論争も喚起した。論争のネタになる、という意味も含めれば、商業出版としては『ゴー宣』は「ひん死」の状態どころか、今なお意気軒昂、と言ってよい。
 「ユニークな直感から繰り出される新鮮な主張がめっきり減り、誰かから借りてきた主張を伝えるものになってしまった」(ibid,13)という指摘も同様である。それが「当たっている」かどうかとは別に(つまり、たとえ主張の中味が借り物にすぎないにしても)、小林が今もなお精力的に『ゴー宣』を描き続けている、という単純な事実はとりあえず存在する。活字書籍や映画、テレビゲームといった表現手段ではなく、あくまで<マンガ>として『ゴー宣』が存在しているということ。まずはこの事実認定が本章の議論の出発点である。
 
揺らぐ<マンガ>性
 ただし、作中で何度も「わしはマンガ家である/でしかない」と表明しているにもかかわらず、小林の描く『ゴー宣』は<マンガ>の枠を外れているように受け取られてもきた。同作の連載開始(『SPA!』1992/1/22号)当初から好意的な評価をしてきた呉智英は、「最初の一、二年は面白かったけど、このところはあまり面白くないね」と述べることを「否定」として受け止めないように、と釘をさした上で、次のように論評する。
 
 最近の『ゴー宣』はマンガとしてあまり面白くはない。なぜならば、『ゴー宣』は狭義のマンガの枠をはみ出し、マンガ以外のものになってしまったからだ。そして、そのマンガ以外のものとしてハラハラするほど面白い。ある作品がマンガとして面白くなければならないという理屈はないし、あるマンガ家がマンガ家としてのみ評価されなければならないという理屈もない。マンガの枠をはみ出した何かとして、マンガ家の枠をはみ出した何者かとして、かつてなかったほど面白ければそれでいいのだ。(呉1998,144­145)
 
社会問題を正面から取り上げる、「従来のマンガの枠から一歩も二歩も踏み出す作品」であり、「連載への批判に対して連載作品のなかで応えるなど、異色のマンガ」だったが、「ただ、絶叫や怒りのセリフが氾濫するにつれ、“マンガ”としてのおもしろさが失速して、ぼくなどはしだいに興味が失せた」(竹内1995,189­190)という感想もまた、呉の論評を補足するだろう。さらにもう一例挙げれば、岡田斗司夫は「どんどん敵の設定や舞台が破天荒になって収拾がつかなく」なってしまう、業界用語で言うところの“壊れたマンガ”としてならば『ゴー宣』を面白く読むことができる、と皮肉めかして論評している(岡田1997)。
 社会問題に対して「ごーまん」かます小林=『ゴー宣』が持っていた新鮮さ・面白さは、当初は<マンガ>という表現様式ならではの魅力として語られていたが(呉(1995)など)、従軍慰安婦や先の大戦がテーマに取り上げられて『戦争論』が刊行されるに至る98年以前の段階から、<マンガ>として受け取られることが少なくなっていた。コマで区切られ、絵と文字・活字とによって構成されるという形式面から言えば、『ゴー宣』はこの間ずっと<マンガ>の名に値する表現として存在し続けてきたというのに。
 やはり、この情況はどこか「奇妙である」。
 
<マンガ>のリミットを測定するために
 では、『ゴー宣』は本当に<マンガ>ではなくなってしまったのか。
 即答することはできない。ただ、内容に影響される読者の批判能力の欠如や、「右傾化(J回帰)」が進む社会風潮を前提にした、<マンガ>である/ないの線引きだけは本章では意図的に避けることにしたい。確かに、そうした議論も『ゴー宣』を<マンガ>としてとらえているように見える。しかし「(特定のイデオロギーの)プロパガンダ」として『ゴー宣』を批判することに軸足が置かれ、手段の巧妙さの所以に<マンガ>性を持ち出してしまっては、本章の議論においては論点先取との謗りを免れにくくなる。「イデオロギー/表象批判」そのものの意義は認めるにしても、「たかがマンガ」である『ゴー宣』が賛否両論どちらにおいても“熱く”語られてしまう情況の奇妙さは、あくまで<マンガ>なる表現ジャンルの境界(リミット)を測定するという目的の上でこそ論じられるはずのものであろう。
 あるいはこう言ってもいい。『ゴー宣』を「下品な/プロパガンダにすぎない作品」として排除した形で成立する“芸術至上主義”でも、また社会風潮や読者の置かれた「特殊」な情況をことさらに強調する議論(文脈(コンテクスト)主義!)、つまり少し手の込んだ“社会反映論”でもない『ゴー宣』の語り方を模索すること、それが本章の駆動力である、と。「されどマンガ」という結論に落ち着くのは早上がりだと冒頭で述べたのも、この言い方が<マンガ>の本質を楽観的に−つまり、前提なしに「研究」に値するものとして−とらえてしまう傾向を助長することへの懸念を筆者が持っているからである。
 よって、以降の記述では『ゴー宣』およびその周囲を仄かながらも瞬く光源として、現在の<マンガ>の輪郭の一端を照らし出すことが目指されることになる*3
 
2.マンガ=表現のリミット
 
「絵」と「意見(メッセージ)」とのあいだ
 複数のコマと描線、および吹き出し内外の活字によって構成される『ゴー宣』。その中で作者・小林は“よしりん”という分身的キャラクターとして登場し、様々な議題に対する「意見(メッセージ)」を提示する。キメのセリフは「ごーまんかましてよかですか?」。小林=“よしりん”はこのセリフに向かって自説を展開していく。取り上げるテーマも、どう取り上げるのかも、すべて作者であり作中の主人公でもある“よしりん”が決定する。部落差別、表現の自主規制、ゴシップ報道、オウム真理教、薬害エイズ、従軍慰安婦、大東亜戦争・・・。「時評マンガ」などとも呼ばれてきた『ゴー宣』は、徹頭徹尾、小林の「意見」を<マンガ>として提示することで話題となり、賞賛され、また批判されてきた。
 だが、作中で何が描かれているのか、という「内容」レベルの問題は、本章の問題関心からすれば二次的なものである。むしろ“よしりん”が提示する「意見」がそれとして認識されるのはどの表現レベルか、というところにこそ、『ゴー宣』をめぐる奇妙な情況−形式と評価との齟齬−をときほぐす最初の糸口は見出せる。
 一読すれば分かるように、『ゴー宣』には絵とともにフォントやポイントの異なる活字が溢れている。読者は各コマに詰め込まれた活字を拾い、絵の部分と照合しながら『ゴー宣』という<マンガ>を読み進めていく。だからこそ、「漫画を批判するとなると、[吹き出し内外の:引用者注]文字だけではどうしても正確を期したことにならない。画面そのものに含まれた多様な情報も引用する必然性がある」(上杉1997,149)として、『ゴー宣』のカットが引用された批評本が作られることにもなる。しかし、小林は以下のような理由から、上杉の『脱ゴーマニズム宣言』におけるカット引用の不当性を主張する。
 
 「ゴーマニズム宣言」の「漫画批評」など まだ だれもやったことがない 漫画というジャンルの中でも特殊すぎて だれもやれないのだ・・・(中略)・・・繰り返して言っておく 上杉の本で批評対象となっているのは わしの慰安婦問題に関する「意見」の部分だけである 「絵」については全く批評していない よって「脱ゴーマニズム宣言」は「漫画批評」ではなく「意見批評」であり 「絵」を大量に無断掲載する必要など全くないのである!(『新ゴー宣』第8巻152頁 太字は原文 なお、読みやすさを考えて適宜空白を入れた:以下同)
 
 注目すべきは、小林が『ゴー宣』の「絵」の部分と「意見(メッセージ)」の部分とは(批評対象として)分割可能である、と認定している点である。「絵」の「絵」たる所以を説明しない限り「絵」を論じたことにはならない、という見解そのものは、ストーリーやプロット、キャラクター(登場人物)設定、あるいは「絵」などから論者が恣意的に読みとった作者の意見・主張(メッセージ)を論じることがマンガ批評として通用してきた歴史に対する、実作者の側からの批判とすれば、実に真っ当な主張である*4。ただし、その直後に開陳される「似顔絵」*5についての見解からは、小林が『ゴー宣』における「絵」と「意見」との境界をどこに引いているのか、少々見えにくい。
 
 はっきり言っといてやろう 似顔絵も作者の主張であり批評である 政治家や文化人や左翼・右翼だけでなくオウム信者だろうと外人だろうと わしの味方の陣営にいる者だろうと 公人ならばわしの批評から逃れることはできない それがたとえHIV患者だろうが身障者だろうが 批評において差別はしない それが わしの流儀である(『新ゴー宣』第8巻155頁 太字は原文)
 
 似顔絵だけが小林の主張・批評であるのならば、『ゴー宣』は「意見」の表現方法として「絵」を用いる必然性がなくなってしまう。だから似顔絵「も」と、文字・活字や他の絵と似顔絵とが注意深く並列されている。ただ、それでも文字・活字による「意見」と「絵」とが分割可能であると小林が見なしているとすれば、例えば『戦争論』を描くにあたって、次のように必死で<マンガ>たらしめんと奮闘した自らの制作態度とは、明らかに矛盾を来してしまう。
 
 断っておくがわしが今描いている『戦争論』 「侵略か否か?」とか あの戦争の知識や解釈を絵解きするようなダサイものは描いてない その辺オヤジが期待したってムダだ 知識人には書けないもの 若い人が楽しみながら夢中で読めて しかし軽くなく重厚なものを たっぷり描きおろすのだ(『新ゴー宣』第5巻64頁)
 
結果として『戦争論』が(「保守・反動」的な)イデオロギーの「絵解き」にすぎなくなっているかどうかは、とりあえずの問題ではない。右に見られる意図(<マンガ>への志向)の吐露から、結果(「絵解き」としての現出)との乖離に気付かぬ哀れな宣伝マンガ家・小林よしのりの姿を見出すことなどよりも、むしろ『ゴー宣』がそもそも「絵解き=プロパガンダ」になり得る可能性を小林自身が気付いていながら、しかしそのまま<マンガ>として提示することをも許してしまう何らかの内在的=表現的要因を考えてみる必要があるだろう。似顔絵の批評性を声高に主張する小林が、「意見(メッセージ)」を提示する表現方法として絵と吹き出し内外の活字とを鮮明に区分けしているとしたら、『ゴー宣』をそれでも<マンガ>たらしめているのは一体何なのか。
 
“キャラを立てる”
 よしりん、カナモリ、トッキー、ポカQ、チーフ・広井。『ゴー宣』を制作する「よしりん企画」のスタッフは、作中で明確なキャラクター(キャラ)を与えられ、聞き役や盛り立て役、あるいは狂言回しを演じることで“よしりん”がかます「ごーまん」に貢献する。各界の著名人や知識人たちも、“よしりん”主演の舞台=『ゴー宣』にドラマ性を与える援護(味方)キャラ・敵キャラとして、今まで数多く登場してきた。呉智英や浅羽通明、大月隆寛などは小林に助言や苦言を呈する「知識人」として、また『噂の真相』の岡留編集長やオウムの麻原彰晃、帝京大教授の安部英などは、さながらRPGのボスキャラのように描かれた。中には西部邁のように、最初は「ダメ知識人」の代表例として描かれながら、後に「良識ある知識人」へと格上げされたキャラもいる。
 ここで、主人公“よしりん”だけが格好良く、そして敵キャラは惨いまでに醜く描かれていることでもって、小林の「精神の歪み」や『ゴー宣』の「作品レベルの高低」を云々しても仕方ない。そうした解釈は“よしりん”の「ごーまん」と同じく、煎じ詰めれば恣意的なものにすぎないからだ。絵と活字とが入り組んだ『ゴー宣』の、<マンガとしてのリミットを測定するために考察すべきなのはむしろ、こうしたキャラの圧倒的な存在感が『ゴー宣』の「面白さ」であり、かつストーリー展開の原動力ともなっていることの内実だろう。
 「最初に筋を作ってしまってムリにキャラクターを当てはめるより まず すぐれたキャラクターを決めて 動かせば物語ができちゃう」(『新ゴー宣』第4巻166頁)、あるいは「マンガっていうのはとにかくキャラクターが『立つ』かどうか、ってことをわしなんか『少年ジャンプ』でずっと叩き込まれてきとるから・・・」(『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』180頁)と自らの<マンガ>制作の手法を開陳している通り、小林の描くキャラは過剰と言ってもいいほど「立って」いる。特に、読者には馴染みの薄い(と小林が想定している)「知識人」を登場させる際には、似顔絵に基づいた周到なキャラ立てが行われる。そうであればこそ、次のような『ゴー宣』≠「絵解き」説が強調できもする。
 
 「漫画はわかりやすいから良い」としか思ってない者は漫画をバカにしているのである 漫画の核はキャラクターである キャラが立って読者が感情移入できたらその漫画は成功し ヒットする ほとんどの読者は漫画の中の「よしりん」というキャラの語り口に信頼を寄せてるだけだ 単なるわかりやすい絵解き漫画に魅力はない モチベーションが弱いからだ 『ゴー宣』をプロパガンダに利用しようとしたら 後で恐ろしいことになるだろう···(『新ゴー宣』第6巻111頁)
 
 キャラを立てる、しかも、どこで再登場してもそれと分かる強烈なキャラを。似顔絵が当人に似ているかどうかは、実は大した問題ではない。なぜなら、そこで立てられたキャラには、言葉=活字によって説明する必要のない存在感が宿っている(と作者・小林は信じている)のだから。
 <マンガ>、特に小林本人がデビューした少年誌における<マンガ>にとって基本的な技法−キャラを立てること−に忠実であることが、「絵」と「意見」とが分割可能だとする見解に表現論的な支えを与えていることは、もはや言うまでもあるまい。活字で表現される「意見」は、存在感あるキャラが発してこそ説得力を持つと小林にはとらえられているのだ。つまり、小林にとっての「絵」とは、(すべてとは言えないにしても)あくまでキャラを表現する手段としての「絵」なのである。
 
活字の氾濫/叛乱する活字
 しかし、まさにこの似顔絵によるキャラ立て戦略が、『ゴー宣』に今なお<マンガ>としての活力・魅力を与えつつ、同時に絶え間ない批判を招く要因になってもいる。『ゴー宣』の歴史上では“死闘編”へのプロローグとなっている糸圭秀実への批判(第115章「知識人の逆襲−狂った深読み」)は、<マンガ>において渾然一体であるはずの「絵」と「意見」とが(望んだ結果ではないにせよ)明確に区分けされざるを得なくなった最初の例であろう。それまでの例に漏れず、この章で小林は似顔絵による「知識人・糸圭秀美」のキャラ立てを行った。しかし、知識人の具体的な「意見」は活字として表現せざるを得ない。そう、糸圭は「知識人」であると同時に(そして、表現の手段としてならばそれ以前に)「活字人」だったのである。
 この後、現在に至るまで「知識人」と小林が見なす人物の言葉は、似顔絵と活字とのコマ内同居という手段で表現されることになる。そして、小林が反論するために引用する言葉にせよ、また賛同したり理論補強のために引用する言葉にせよ、似顔絵によって見事に「立って」しまっている知識人は、物語を盛り上げるために不可欠なキャラとして、膨大な量の活字を『ゴー宣』の中に投げ込むことになる。それを意図的に排除することは、作者・小林にはできない。「マンガ家でしかない」のに「知識人」たちと堂々と渡り合い、舌鋒鋭く批判してこそ、<マンガ>の主人公キャラとしての“よしりん”の存在感も増すことになるからだ。
 “よしりん”の主張の説得力増強のために知識人=活字人を<マンガ>という自らの土俵に上げたことによって、『ゴー宣』の紙面には活字が氾濫することになる。そもそも知識人は「活字」しか表現手段(必殺技)を持たないキャラであり、それを批判する“よしりん”もまた彼らを論破する(倒す)には「活字」で応酬するほかない。自らの援軍として賛同や応援の思いを伝えるファンからの手紙(レター)を取り上げるときも、文字(レター)で綴られた読者の意見は、フォントを変化させることぐらいでしか<マンガ>に取り込めないから、活字の氾濫状態はさらに加速する(『ゴー宣』第124章「『ゴー宣』梁山泊の理論家たち」など)。
 もちろん、活字が溢れかえった<マンガ>、という表現手法*6はあり得る。その「内容」が借り物であったりすることも、<マンガ>としての成立要件を突き崩すものではない。ただし、『ゴー宣』がなぜかくも批判の矢面に立たされてしまうのか、あるいは、近年のマンガ批評が論究する「マンガを読むことの難しさ」などを素通りして、『ゴー宣』がなぜかくも「読めて(読まれてではない)」しまうのかを考えていくと、この“活字の氾濫”の意味は大きい。マンガを読む経験など少なかったであろう70代、80代の老人たちが『戦争論』に「感動」し、また小林の言う「サヨク」知識人が執拗な批判を投げかける事態は、「絵」と「(活字による)意見」とを切り離しても読めてしまう『ゴー宣』の表現効果の裏表両面だと見なさざるを得ないのである*7
 個人的な意見を「ごーまん」の名の下に提示し、論敵をも<マンガ>という自分の舞台に登場させて大活劇を展開してきた『ゴー宣』。だが、作品を魅力的たらしめる表現手法は、常に敵キャラとの「格闘」を呼び込み、しかもそれが“よしりん”の思想戦という物語の盛り上がりに貢献する逆説を生みもしている。表現の位相で言うならば、『ゴー宣』が本当に闘っているのは、<マンガ>の境界線上で“叛乱する活字(キャラクター)”という強敵かもしれない。そしてそれは、知識人たちのように「キャラ」化することのできない、とても不気味な敵である。
 
3.マンガ=商品のリミット
 
騙す作者/騙される読者?
 しかし、疑問はまだ残る。<マンガ>の枠を踏み越えかねない表現構造を持っているだけならば、『ゴー宣』がかくも多くの論者から批判を受けることにはならないはずだ。そうであれば、単に「(マンガとして)つまらない」とうっちゃっておけばよいのだから。しかしそうはならず、「内容」の正誤、表現の巧拙などがけたたましい批判の対象となってしまうのは、冒頭で述べたように『ゴー宣』が今なお、商業出版としてはウケている、という事情に拠るところが大きい。
 そこで『ゴー宣』への批判は、表現レベルにとどまらず、その受容=消費の構造、さらには読者=消費者の心性を問題にすることとなる。長きにわたる不況下の閉塞した社会風潮の中で個を確立することの難しい若者が、絵と活字とで巧妙に仕組まれたプロパガンダに惹きつけられていく、といった論調はその典型であろう。奇しくも同年同月に雑誌『世界』と『論座』で組まれた『戦争論』批判の特集でも、いくつかの例外を除いて、同作の「商品としての危ない魅力」が指摘されている。例えば中西新太郎は、「『小林よしのり』の成功を作品の内容だけから説明はできないしすべきでもない」として、その「受容の構造と意味」を探り、「八〇年代のように消費文化を生き抜く道が閉ざされようとしているいま、ゴーマニズムは劣位の日常を反転させる文化的下克上の武器として機能しはじめている」と結論する(中西1998)。またアーロン・ジェローも、「図像として」の分析を軸にしながら、「語り手の声に対して読者が異議を申し立てる余地を与えていない」テクスト形式が「受動的な消費者をその対象として想定している」と、中西と同じく『戦争論』独特の受容構造を問題にしている(ジェロー1998)。
 こうした分析が「当たっている」かどうか、やはり本章では問わないこととしよう。確かに時代情況や個人の心的傾向によって『ゴー宣』に「はまる」読者もいるには違いない。だが、『ゴー宣』を批判する論者だけはその巧妙な手口を知っていて、「精神的・知的に弱い読者が小林の論法に騙される」と啓蒙主義的に指摘するにとどまるならば(また、その裏返しとして“メディア・リテラシー”の獲得を強調するだけならば)、「今度は読者の方をけなすわけね。これはもう読者が『違う』と言えば終わりでしょう。」(『新ゴーマニズム宣言スペシャル 「個と公」論』65頁)といった小林の揶揄に、根本的な応答ができなくなってしまう。あるいは、「物語の破綻を構造的に仕組んでいる」ギャグ・マンガとして提出されている以上「この『戦争論』をめぐる騒ぎの全体の構造がギャグなのだ」、といったメタ・レベルからの指摘(佐藤1999)にも、こうした「騙す作者/騙される読者」図式は論理的な反駁を封じ込められてしまう。ギャグ・マンガとしての体裁が逃げ道になっている、という(実はかなり本質を突いた)指摘を感情的反発にしか見せない仕組みを、『戦争論』そして『ゴー宣』シリーズは意図せざる結果であろうとなかろうと、見事に備えてしまっているのだ*8
 本章の目的からすれば、だから問われるべきは「内容」に敏感に反応する読者の心性でも、それを可能にする現代社会の閉塞性でもない。小林がかくも自信に満ちて「知識人」たちの批判に答えられる根拠、つまり『ゴー宣』の商品としての「優秀さ」を、くどいようだがあくまで<マンガ>のリミットを考える目的の上で考察する必要がある。
 
<虚実>の出入り−梶原劇画の“鬼子”としての『ゴー宣』−
 前出の中西やジェローは、小林=“よしりん”がテクストを統べる虚焦点として登場する語りのスタイルを、『ゴー宣』の受容構造にとって本質的なものだと指摘している。ただし、このスタイル自体は『ゴー宣』が独自に開発したものでは全くない。「賢明なる読者はすでにおわかりと思うが・・・」といった解説を挿入することで、写実的な描写と俯瞰的な構図との相乗効果をもたらそうとした白土三平や、虚実ないまぜの出来事を「アントニオ猪木(談)」といった実在の人物の発言の挿入*9によってそれらしく創り上げた、梶原一騎による劇画原作の創作手法もまた、『ゴー宣』における主人公キャラ“よしりん”の先達として見なすことができる。つまり『ゴー宣』は、「作者」が(作品中に登場するか否かの別はあれ)同時に「語り手」として読者に物語世界を提示するという語りのスタイルにおいて、<劇画>のそれを周到に受け継いでいるのである。
 もし『ゴー宣』がこうした「劇画的語り」の系譜上で新しい面を持つとすれば、生々しい<現実>をテーマとして取り上げたことだろう。歴史やハードボイルドといった<虚構>性の高い世界を描くことの多かった貸本劇画から、テレビや雑誌を通じて知ることのできる格闘技の世界を描く梶原劇画に至る系譜の中で、『ゴー宣』はさらに<現実>寄りの物語を提示する。薬害エイズ訴訟への支援を訴える際には、それこそ「プロパガンダ」すれすれのアジテーションを行い、またオウムとの「死闘」では自らが殺されかけたリアルな体験を再現して見せた。読者は『ゴー宣』を通じて、自分と地続きの身近な<現実>を−“よしりん”への親近感とともに−読みとっていく。呉智英や浅羽通明に「早く物語の世界に戻ってほしい」と忠告されたときに返した答えは、だから、今となってはまるで現在の『ゴー宣』の姿を見通していたかのようにすら見える。
 
 わるいが君たちは読みが浅い! 『ゴーマニズム宣言』はもはや単なる時評マンガではない すでに物語の世界へ突入している! 現実と交錯して展開する時代絵巻の世界へ! このマンガに出る実在のキャラクターたちの動きがクライマックスに収束されていく時 この時代そのものにもクライマックスがやってくるのだ! 神であるわしが今 現実を物語化している!!(『ゴー宣』第4巻140頁)
 
 繰り返すが、『ゴー宣』で「正しい」現実描写がなされているかどうか、そこに<現実>と<虚構>との混同があるかどうかは問題ではない。それが閉鎖的であろうと、「間違った」解釈に基づいたものであろうと、作者と読者との一種の共犯関係、もう少し穏健に言えば“作者−読者共同体”が構築されていることが、<商品>としての『ゴー宣』にとって重要な要件であることに変わりはない。梶原原作の『空手バカ一代』に感銘を受けた読者が極真空手の門を叩き、現在のリアル格闘技ブームの土台を築いたように、「『ゴー宣』が現実に影響を与え 現実を物語化し さらにそれを『ゴー宣』が実況で伝えることによって 『ゴー宣』全体が物語のうねりをもって完成する それが『時代を変える』ということだ!」(『ゴー宣』第6巻133頁)と堂々と主張できるのは、「正しい/正しくない」といったイデオロギーによる裁断を脱臼させる“熱い”関係が作者と読者との間に切り結ばれている(と小林が信じている)からなのだ。
 <現実>のテーマが、魅力的なキャラクターによって演じられ、<マンガ>として現出する。劇画の世界において梶原一騎が“鬼子”であったとするならば、『ゴー宣』は「梶原劇画」のさらなる“鬼子”である、と言えるかもしれない。梶原の“鬼子”たる所以は、戦後マンガの体制内改革運動であった劇画を、活字主体の少年もの(少年小説や絵物語)の論理に引き戻そうとし、しかしそのことが劇画のアンチ・マンガ性を支えたところにあった。そのとき有効に機能したのは、活字として<マンガ>の中に登場する原作者・梶原一騎の言葉だった。そして今、小林は自らマンガを描く(この点で梶原とは異なる)言葉=活字の発信者として、梶原劇画がついに果たせなかった<現実>のマンガ化を果たしている。プロレス的解釈−虚構と現実との往還運動(大塚1987,122-134)−を生々しい<現実>の世界においても可能にしたという点で、『ゴー宣』は紛れもなく梶原が死して後に現れた“鬼子”である−その受容構造が<マンガ>のリミットを踏み越える可能性を多分にはらんでいる*10、という意味においても。
 
「売れる」ことと「読まれる」こととのあいだ
 絵と活字との混交的な表現によって作者の意見(メッセージ)が提示され、それを読者が受け入れる。この生産−消費関係が見事に成立し、しかも商業としても十分な利益を上げること、それこそが『少年ジャンプ』における“アンケート至上主義”をくぐり抜けてきた小林にとって、『ゴー宣』を<マンガ>として提示できる物質的基盤になっている。『戦争論』に「六十五万の人間が涙し、感動し、『眼からウロコが落ちた』って、今までの戦後民主主義の感覚から雪崩を打つように転向」させるほどの作品であることを誇らしげに語り、「知識人」たちが「新刊で出す批判本の全部の部数よりも、『戦争論』の一回の増刷の部数の方が多いくらいなんだから(笑)」と嘲笑するその一方で小林は、「本気でわしに対抗する気があるのなら、読者がどこに感情移入し、どこに説得されたかを分析して、そこに言葉を届けるようにしなきゃならないはずなのに、相変わらずの『化石の言葉』を一所懸命投げつけているだけなんだから」と、読者の「感情移入」の度合いを例にして『戦争論』の優位さを主張してもいる(『「個と公」論』28-29頁)。
 売り上げ、読者ののめり込み度、その双方からして「知識人」たちの書物が『ゴー宣』には遥かに及ばないことは、覆しようのない事実であろう(「正しい」書物の「正しい」受け入れ方が存在すると信じるのならば話は別だが)。そう、かつての『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』に劣らぬ程度に、『ゴー宣』は<商品>として“勝利”を収め続けているのである。
 しかし、本来「ギャグ・マンガ」として出発した『ゴー宣』が、今もそのような種類の表現として読者に受け入れられているか、となると雲行きは怪しくなる。単行本に収録される「応援レター」、あるいはネット上での(個人サイトやBBSなどにおける)支援は、「サヨク」批判とセットになった“よしりん”への賛同に満ちている。その“大政翼賛”的、“保守反動”的な雰囲気が問題なのではない。それは『ゴー宣』という<商品>の購買者としての素直な反応のひとつでしかなく、「批判的思考能力を欠いている」から“よしりん”の主張に首肯していることの証拠にはならないし、しかも彼らの個人的志向を独断的に批判するには、よほどの「正しい意見」を持ち出すほかはないだろうから。ただ、前節で見た「絵」と「意見」との分離が、解釈−受容の位相においても「意見」への突出した反応を生んでしまっている現状を鑑みると、「今の『ゴー宣』を支持している人達は、おそらく漫画としての面白さを支持しているのではあるまい」(松沢2000)という指摘は、かなり深いところで真実を突いている。
 「知識人」とは住む世界が違う、言い換えれば小林が当初から拠り所にしていた「地に足の着いた」場所で生活する老人や若者から支持を受ける、ということそれ自体は『ゴー宣』にとって喜ばしいことではあろう。しかし、そうした読者は、かつてのようにプロレス的マンガ−梶原劇画の正統的伝承−として『ゴー宣』を読んではいない。「知識人」を相手にすればするほど、そしてその“死闘”に勝ち続けていけばいくほど、『ゴー宣』は絵とイデオロギーとの出入り(虚実の往還運動)の面白さゆえにではなく、絵かイデオロギーかという二者択一の、つまり小林が一番懸念していた「絵解き」の明快さゆえに支持が集まってしまうのだ。マンガ家は読者に仕える下僕である、と常々述べている小林は、この支持もまた「商品の優秀さ」ゆえと受け取るほかない。
 このことは、表現レベルと同様、『ゴー宣』を<マンガ>の境界線(リミット)上に連れていく。意図としては「絵解き」であることを忌避しつつ、しかし批判者のみならず賛同者からも「活字」による意見(メッセージ)の位相で反応を受けてしまう、という事態。それは「絵解き」として解釈されていることとほぼ同義である。商品であること、しかも「売れる」ことに徹底的にこだわり、しかも「売れる」ことが「ウケる」ことを示す唯一の証でもあるという<マンガ>の商業論理を『ゴー宣』は見事に実践し、そして勝ち続けてきた。しかし、才能が枯渇することで商品の魅力がなくなる=負けることを危惧する小林の前に立ちはだかっているのは、すでに鎮圧(部数競争で勝利)した「知識人」の書物などでは毛頭なく、<マンガ>の読まれ方の二面性、というこれまた不気味な敵なのである。
 
4.リミットとしての『ゴーマニズム宣言』/<マンガ>のリミット
 
マンガとして壊れている」ことの二重の意味
 最後にもう一度、冒頭で見た『ゴー宣』評に戻ってみよう。呉智英はマンガ以外のものとしてなら面白いと言い、岡田斗司夫はマンガの枠外に転げ落ちる様を観察することが面白いと述べた。本章での議論からすれば、明示的・暗示的の違いはあれ、両者ともに『ゴー宣』がここ数年の“死闘”を経てたどり着いた地点を指し示していると言ってよいだろう。「正しい/正しくない」といった、内容に対する(かなりの場合イデオロギッシュな)判定を脱臼させながら、しかし賛同者・批判者双方に強烈なメッセージとして機能してしまう、そんなメディアとして『ゴー宣』は存在する。あるいは、「『ゴー宣』はもはやマンガではなくなってしまった」という言い方が、「マンガとして」提示される同作の読者から出てしまう、そんな<マンガ>が『ゴー宣』なのであり、「マンガ以外のものになった」という意味で壊れているというよりも、むしろ『ゴー宣』は「マンガとして」壊れている、と言えるのではないか。
 しかし、よしんば「マンガとして」壊れていることが本章の議論で証明されたとして、小林および『ゴー宣』を<マンガ>の埒外に放り出して、それで事が済むわけではない。本章の本題を「『ゴー宣』のリミット」ではなく「<マンガ>のリミット」としたのは、『ゴー宣』はその“死闘”の中で遂行的に<マンガ>なるジャンルのリミットを示してきたかもしれない、との仮説を最後に提示したいがためなのである。
 もし『ゴー宣』が「マンガとして」壊れているとするなら、それは<マンガ>というジャンルそのものが、そもそも表現として自律していないことの象徴的な事例となるのではないか。それほどに、『ゴー宣』は<商品>の側面が強く押し出された<表現>として現出している。完結したテクストとして語ることが許されず、いつの間にか社会背景や読者の心的傾向などが持ち込まれてしまうのは、『ゴー宣』の「稚拙な」表現構造だけで説明がつくものではない(もし本当に「稚拙」ならば、読者を「騙す」トリック−レトリックがかくも指摘されるはずがない)。その意味で『ゴー宣』は、<マンガ>という表現ジャンルが抱えている「運命」のようなものを−決してきれいではないが、しかしある界面ではとても鮮明に−なぞっているのかもしれない。
 
「たかがマンガ」が照らし出すもの
 もちろん、本章の議論から即座に<マンガ>の表現としての自律性を否定する結論を導き出すことはできない。ひょっとすると、『ゴー宣』のような「壊れた」表現ですら許容してしまう不思議な懐の深さを持つ、それこそ「奇妙」なジャンルとして<マンガ>が存在する、とも言えるからである。<マンガ>を論究対象にする際に表現論と商品論とを二つながらにして勘案せざるを得ない事情は、このジャンルが一筋縄ではいかない底深さ(あるいは、底知れぬ浅さ)を持っていることの効果だとも言えよう。
 だからこそ、「マンガとはいかなる表現・メディアなのか」を考察するにあたって、「表象/イデオロギー批判」を安手の調理器具にしてしまわないためにも、ジャンルとしてのマンガのあり方を今一度問い直す、という作業が求められる。そして、それでも足を踏ん張って「されどマンガ」と主張しようとするのなら、われわれが踏み固めるべき地面がどのようになっているのかを−時にジメジメした気持ちの悪いものであろうとも−見つめ直してみなければなるまい。
 「たかがマンガ」である『ゴー宣』が無骨で粗暴なやり方ながらも浮き上がらせている<マンガ>の境界=限界(リミット)は、それほど薄く、しかしまた同時にしぶとい柔らかさを具えているのである。
 
 
資料・引用文献
 
小林よしのり『ゴーマニズム宣言』第1巻〜第8巻 扶桑社
『ゴーマニズム宣言』第9巻 双葉社
『新ゴーマニズム宣言』第1巻〜第9巻 小学館
『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』1995 解放出版社
『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』1996 幻冬舎
『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』1998 幻冬舎
『新ゴーマニズム宣言スペシャル 「個と公」論』2000 幻冬舎
 
石子順造 1974 「危機としてのキッチュ−「愛と誠」考」 『現代の眼』1974/9 pp.52-61
ジェロー,アーロン 1998 「図像としての『戦争論』」 『世界』1998/12 pp.118­123
切通理作 2001 『ある朝、セカイは死んでいた』 文藝春秋
呉智英[編]1995 『小林よしのり論序説 ゴーマニズムとは何か』 出帆新社
呉智英 1998 『マンガ狂につける薬』 メディアファクトリー
松沢呉一 2000 「情けないよ、小林よしのり」 上杉[編著]『脱戦争論』 pp.117­132
中西新太郎 1998 「『小林よしのり』というメディア」 『世界』1998/12 pp.106­111
岡田斗司夫 1997 「壊れたマンガ」『美術手帖』1997/1 pp.15
大澤真幸・宮崎哲弥 2000 「対話 逃走論を越えて」 『大航海』2000/8 pp.84-105
大塚英志 1987 『[まんが]の構造 商品/テキスト/現象』 弓立社
大月隆寛 2000 『あたしの民主主義』 毎日新聞社
佐藤貴彦 1999 「小林よしのり『戦争論』論争」 日本論争史研究会[編]『ニッポンの論争2000』 夏目書房 pp.80­82
竹内オサム 1995 『戦後マンガ50年史』 筑摩書房
上杉聰 1997 『脱ゴーマニズム宣言 小林よしのりの「慰安婦」問題』 東方出版
上杉聰[編著] 2000 『脱戦争論 小林よしのりとの裁判を経て』 東方出版
瓜生吉則 1998 「<マンガ論>の系譜学」 『東京大学社会情報研究所紀要』第56号pp.135­153
−−−− 2000 「マンガを語ることの<現在>」 吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』 せりか書房 pp.128-139

*1現在は『新ゴーマニズム宣言』とタイトルを改めているが、シリーズとして示す場合は『ゴー宣』と略す。
*2例えば、すべての事例が取り上げられているわけではないが、日本論争史研究会編『ニッポンの論争2000』(夏目書房)74〜97頁を参照。
*3敢えて付け加えるのは蛇足の域を越えているが、無意味な論難を喚起しないためにも言い添えておきたい。本章でこのような目標の下、『ゴー宣』とそれをめぐる議論をあくまで素材として扱うことに対して、「(例えば「戦争」という「重要な」テーマについての)議論を矮小化し、事の本質から目を逸らすものだ」という批判が起きてしまうかもしれない、そのこと自体、筆者が以下で展開する議論にとっては興味深い事例なのである。<マンガ>の現在的な布置を考える上では、『ゴー宣』をめぐって何が主題として語られようと、言説の素材としてはそれらは全く等価である。「政治的・社会的に重要な案件」なるものを先取り設定した上で、本章での視角を「マンガという大衆文化の持つ“政治性”に無自覚だ」などと言ってしまうことの方が、マンガの本質(の有無)を考えようともしない、ご都合主義的かつ極めて政治主義的な「マンガの社会学」である、と筆者は考える。
*4戦後のマンガ批評がこうした「意見・主張(メッセージ)」分析に終始しているわけでは、もちろんない。その変容過程については瓜生(1998および2000)を参照。
*5『脱ゴーマニズム宣言』では『ゴー宣』で描かれた薬害エイズの被害者の似顔絵に「目線」が入れてあり、小林側はこれを著作権法における「同一性保持権」違反であるとして、また『ゴー宣』内のカットが“無断引用”されているのは同法の「引用」条項に触れるとして東京地裁に提訴した。裁判の経緯については上杉(2000)および『新ゴー宣』第103章ならびに第119章を参照。
*6『新ゴーマニズム宣言』第九巻のカバーには作品の下書き(ネーム)がデザインされており、同作がいかに「文字(活字)」の氾濫する<マンガ>であるか一目瞭然となっている。
*7『新ゴーマニズム宣言スペシャル 「個と公」論』は、『戦争論』に対する批判を「十全に言葉に尽くして論破し説明するために、本書では『漫画』の手法を一切封じた。『漫画』でわかりやすいからずるいとか、『似顔絵』を描くからイメージ操作だとか、甘えた批判の余地を除去してみせるのも面白い企みだろう」(402頁)として、すべて「活字」で編まれている。しかし、その「内容」がスタッフの“トッキー”との問答スタイルになっている点は、語りの構造として<マンガ>の『ゴー宣』と全く変わらない。ここにも「絵」と「活字」との曖昧な、しかしどこか鮮明な区分が小林個人には想定されていることが見て取れる。
*8ギャグ/シリアス、あるいはメタ/オブジェクトレベルが容易に反転可能な物語構造を持つ作品として『ゴー宣』を取り上げている秀逸な論評として大澤・宮崎[2000]を参照。
*9ただし、実際のマンガ作品(原田久仁信・画の『プロレススーパースター列伝』など)においては、発言の当人の“似顔絵”が付されており、梶原の原作単独の効果というよりも、原作者と作画家との合作としての<劇画>の効果と考えるべきだろう。
*10梶原一騎原作の作品における作者−読者の「共犯」関係については、石子(1974)を参照。また、「梶原劇画」と『ゴー宣』との類似点については、切通[2001:211-225]を参照。