「熱血」の系譜
瓜生吉則
 
※初出のものを一部改稿した。また、原文の傍点は太字に変更した。


 
 「梶原さん、『少年マガジン』の佐藤紅緑になってください」「内田さん、わかった!」
 今なお“熱血・スポ根”マンガの代表作と称される『巨人の星』は、二人の人物のこのようなやりとりから生まれたという(*1)。呼びかけたのは、戦後初の少年向け週刊誌『少年マガジン』の編集者(後に編集長)内田勝。答えたのは、後年“劇画の帝王”として君臨することになる梶原一騎。
 少々出来過ぎの感もあるエピソードではあるが、昭和初期から現在に到る<熱血>の系譜を振り返ってみるとき、このやりとりは象徴的である。ある時期に一世を風靡し、後に非難や軽蔑の対象となりながら、再評価の機会にも恵まれる。<熱血>とは、そんな紆余曲折をたどる不思議な主題であり、梶原一騎はその典型的な作家であった。
 
★<熱血>の生命力★
 「本来、私は少年小説作家である。現代の佐藤紅緑『ああ[ママ]玉杯に花うけて』を書きたい、山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸たりたいと志していた。」(*2)
 球界の盟主・巨人軍の光り輝く星となるべく幼少の頃から特訓を重ね、球質の軽さという致命的な欠陥を補うために“大リーグボール”を編み出し、最後はその魔球で自らの腕を壊してしまう星飛雄馬(『巨人の星』)、養護施設への資金援助のため、“虎の穴”から送り込まれる使者たちとの血みどろの死闘を繰り広げる伊達直人(『タイガーマスク』)、俗世間への未練を断つために片方の眉毛を剃り落としてまで山籠もりの修行に励む大山倍達(『空手バカ一代』)・・・。
 梶原一騎が原作をものしたマンガ・劇画には、昭和初期に一時代を築いた少年小説に似た独特の「匂い」、具体的に言えば、<男>の沸き立つ熱い血潮と、しとどこぼれる汗と涙とが醸し出す「匂い」が濃厚に漂っている。それは、調合を誤れば一気に“お国のために”イデオロギーへと化学変化を起こしかねない、刺激的な「匂い」でもあった。事実、昭和初期に数多くの少年小説を世に送り出して百万雑誌となった『少年倶楽部』は、少年読者を“立派な国民”たるべく教導したとして、戦後は一種の“戦犯”扱いを受けた。
 だから、“民主主義”がまがりなりにも浸透した1960年代、いくら「国家」の影が表面上薄れたスポーツ・格闘技の世界に舞台を限定していたとしても、梶原の描く<熱血>は、やはりどうひいき目に見ても時代錯誤はなはだしい、嫌悪されるべき「匂い」のはずであった。唯我独尊的な愛憎劇を繰り広げる『愛と誠』がヒットしてしまう世情を、石子順造は<ファシズム>の予兆として指摘もした(*3)。
 しかし、彼の作品は読者から支持された。しかも、圧倒的に。世相が保守反動に振れたから、とか、デマゴーグの手法が巧妙だったから、といった理由からだけでは、この事情は説明できない。実にしぶとい生命力が<熱血>という主題には宿っている、そう見るべきだろう。では、その生命力は一体どこで、どのように育まれたものなのか?
 
★手塚治虫の忘れ物★
 「このマンガのどこが面白いのか教えてくれ」。真剣な面持ちでアシスタントに尋ねた手塚治虫の手には『巨人の星』が握られていた、そんな神話めいたエピソードが残っている。50年代初頭、『イガグリくん』で人気を博した福井英一に対して嫉妬にも似た思いを抱いたこともある手塚にとって、「艱難汝を玉にす」の格言を地で行く精神修養主義的な物語が、60年代も半ばを過ぎて再びウケてしまう事態はどうにも受け入れがたいものだったのかもしれない。
 しかし、手塚が本当に理解できなかった/受け入れがたかったのは、梶原作品に漂う「匂い」の中味というよりも、『巨人の星』のような物語がどこで生まれ、どのように受け入れられるのか、つまり<熱血>が発動する土壌だったのではないか。
 マンガを自律した表現ジャンルとして確立すること。われわれが今も手塚を“マンガの神様”と呼ぶのは、既存の少年小説や絵物語のエキスは受け継ぎながらも、あくまで表現としてのマンガの可能性を拡げていった功績を讃えてのことである。ストーリーやキャラクター重視の批評を徹底的に嫌悪した事実を鑑みても、手塚にとってマンガとは絵と文字・活字との新たな混交表現であり、「口幅ったいが私が『巨人の星』で日本中の愛するガキ共、全ガキ連にぶつけて訴えたかったのは、一つの『男の道』である」(*2)などといった、「活字でも言えること」を絵に起こすことなど最初から問題の埒外だったのであろう。
 しかし、幸か不幸か、マンガが表現として自律していくことと、その発表の主たる舞台が定期刊行の雑誌媒体へと移行していくことは、60年代において同時進行の事態でもあった。読者は「何が描かれているか」と同時に、「どこで描かれているか」にも注目しながら、表現の幅を加速度的に拡げていくマンガに接するようになったのである。
 
★雑誌という加熱装置★
 佐藤忠男は昭和初期の『少年倶楽部』に掲載された少年小説群には「イデオロギーの善悪はともかく、少年時代に特有のこうした不安定な心を、ムキになってぶつけてゆくことのできるたしかな手ごたえ」があり、それは“童心主義”を標榜した『赤い鳥』系列の純文学的児童文学にはなかったものだとして、『少年倶楽部』の再評価を促した(*4)。
 吉川英治『神州天馬侠』、大佛次郎『角兵衛獅子』、高垣眸『豹[ジャガー]の目』、佐々木邦『苦心の学友』・・・。こうしたバラエティ溢れる少年小説群のみならず、おびただしい数の講義録の広告、全国から寄せられる読者の投稿、編集部からのメッセージなど、「我等は徳目の中心信条として『偉大なる人[ルビ「○」]』にならねばならぬということを標榜して少年に対しようと思う」(*5)との編集方針に違わぬ熱気が『少年倶楽部』には充満していた。佐藤紅緑が『あヽ玉杯に花受けて』『少年讃歌』『一直線』など一連の少年小説で提示した少年像も、雑誌が提示する<熱血>を体現するひとつの典型的な姿であった。
 これと似たような熱気は、梶原が“現代の佐藤紅緑”たるべくホーム・グラウンドとした、60年代後半から70年代初めの『少年マガジン』にも漂っていた。高山宏は当時を次のように回想している。
 「『巨人の星』でも『あしたのジョー』でもリアル・タイムで進行していた。あの時間を主人公とぼくらは完全に共有していた。週刊という絶妙の出版テンポがそれを強化した。」(*6)
 横尾忠則がコラージュした奇抜な表紙、大伴昌司が企画・構成する特集記事、貸本時代のアングラ性を昇華させた白土三平やさいとう・たかをの劇画、谷岡ヤスジや赤塚不二夫のシュールなまでのギャグ、そして、梶原一騎(高森朝雄)。「国家」に貢献する「偉大なる人」たるべし、といった明確なスローガンは後景に退いている。しかし当時の『少年マガジン』は、それを手に取ることが何らかの価値観を他の読者と共有することになる(“手にはジャーナル、心にマガジン”!)という、幻想に過ぎなくとも一種の共同体意識を寄せることのできる舞台[メディア]たりえていたのである。よど号をハイジャックした赤軍派の田宮高麿は宣言したではないか、「我々は『明日[ママ]のジョー』である」(強調は引用者)と。
 
★<熱血>は回帰する?★
 そう、梶原一騎の<熱血>もまた、『少年倶楽部』における佐藤紅緑同様、それが提示される舞台としての『少年マガジン』を必要としていたのである。大時代的な説教にしろ、故事や逸話をちりばめたくどくどしい説明にしろ、いくら胡散臭く受け取られようとも、「あの時代」の『少年マガジン』においてならそれを提示することができた。マンガの形式を採るか、あるいは活字として提示されるかは、梶原にとっても『少年マガジン』にとっても二次的な問題だった。
 だから、70年代後半以降の梶原の低迷、あるいは<熱血>という主題の沈静化は、世相が「シラケ」に向かったことだけではなく、“雑誌<熱血>時代”が下火になったことからも説明されなければならないだろう。マンガ批評の分野では、“24年組”を中心とする少女マンガやポスト劇画世代が積極的に取り上げられるようになった事実も併せて指摘しておきたい。「マンガと文学」といったテーマが作家の思想性や作品の芸術性の側面から語られるようになったこの時期、“マンガの神様”は幾度目かのスランプから見事に復活を果たしてもいる。
 そして、<熱血>の作家・梶原一騎が再評価されつつある現在。作者=語り手の強烈な存在感は、例えば小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』シリーズで見事に引き継いでいる(毀誉褒貶の激しさまで!)。さて、この事実は日本社会の右傾化・保守化を象徴しているのだろうか? 一面ではそうかもしれない。しかし、『ゴーマニズム宣言』がかつての『少年倶楽部』や『少年マガジン』にも似た、一種のメディア性を備えていることは決して偶然の一致ではない。作者が語り手としてマンガの前面に登場し、読者を巻き込んだ形で(ときに独善的な)主義主張が披瀝される。その結果、共感・批判双方の熱いやりとりが生まれてしまう。そう、『ゴーマニズム宣言』は現在、孤軍奮闘しながら<熱血>を体現している「一人メディア」なのである。
 字面だけ読みとれば、鼻白んだり嫌悪感を覚えることもあるかもしれない。しかし、ひとつのメディアとして<熱血>の系譜をたどったとき、昭和の、いや、20世紀の日本における伏流のようなものとして、<熱血>は今なお脈々と息づいている。驚くべき生命力、と言うほかない。
 
引用文献
(*1)内田勝「『少年マガジン』と梶原一騎」高取英編『「梶原一騎」をよむ』ファラオ企画
(*2)梶原一騎「『巨人の星』わが告白的男性論」『文藝春秋』1971年11月号
(*3)石子順造「危機としてのキッチュ−『愛と誠』考」『現代の眼』1974年9月号
(*4)佐藤忠男「少年の理想主義について」『思想の科学』1959年3月号
(*5)「本誌の編輯方針」『少年倶楽部』1915年4月号
(*6)荒俣宏/高山宏『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』講談社